土佐 香宗城(香南市)

僅かに残る香宗城の土塁跡と城址碑

長宗我部元親の弟・香宗我部親泰の居城

読み方

こうそうじょう

別名

香宗我部城(こうそがべじょう)、香宗土居城

所在地

高知県香南市野市町土居
【アクセス】
野市中ノ村郵便局を300mほど南進し、郵便局から4本目の道を左(東)へ100m弱ほど進むと右手に香宗城の土居跡があります。駐車場はありません。
野市中ノ村郵便局:香南市野市町中ノ村1425-1、0887-54-5002

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 宅地、田園等
【遺構等】 土塁、石碑、石柱、説明立札

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2015/02/18

歴史等

香宗城の歴史は、建久4年(1193)6月、一条忠頼の家人であった中原秋家が宗我部郷と深淵郷の地頭に就任したことから始まる。
忠頼の子・秋道の後見役でもあった秋家は、秋道に2つの郷を譲り、自らは楠目城に居城して山田氏を名乗った。秋道は香宗我部氏を名乗り領地を統治した。
香宗我部氏は四千貫の所領を持つ「土佐戦国の七守護」の一人で、香宗(現香南市)を治めていた。
大永6年(1526)、香宗我部親秀のときに安芸氏との合戦に敗れ、嫡子秀義が戦死したため、親秀は弟の秀道を養子にして家督を譲り、自身は剃髪して引退した。
ところが、長宗我部国親の勢力が急に高まり脅威を感じた親秀は、香宗我部氏の存続のために、家督を譲った秀道を殺害して、長宗我部国親の三男(元親の弟)・親泰を養子に迎えた。
香宗我部親泰は元親を支え、土佐統一、さらには四国進攻にも参戦し、軍事外交の参謀として活躍した。
尚、長宗我部元親の土佐統一の過程において、東部の敵は安芸国虎であったが、永禄12年(1569)元親は国虎を滅ぼし、弟・親泰を安芸城主とした。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』

土佐戦国の七守護
中村御所の一条氏を別格に、岡豊城主長宗我部氏、 安芸城主安芸氏、 香宗城主香宗我部氏、 蓮池城主大平氏、 姫野々城主津野氏、 吉良城主吉良氏、本山城主本山氏の七家が「土佐戦国の七守護」と称されていた。

現況・登城記・感想等

香宗城は、城の東を流れる香宗川を外堀として利用した平城なので、利活用しやすく、大半が農地や宅地となり、遺構といえば土塁跡とみられる残丘だけで、土塁上には八幡宮社が鎮座し、土塁に石碑と説明板が立っています。
勿論、このことは登城前から承知していましたが、長宗我部元親の四国平定を支えた弟・香宗我部親泰の城であるからには、外すわけにはいかないと思って訪れました。
尚、土塁跡は、ここ以外にも南の方に2ヶ所残っているようです。
(2015/02/18訪れて)

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