本山城詰ノ段への虎口石垣と石段
一時は長宗我部氏を討ち、土佐中原を支配した本山氏の元の城
所在地
高知県長岡郡本山町本山、城山公園(山林)
【アクセス】
本山町役場から1本南側の通りを200m程するとコミュニティセンターに突き当たります(本山城周辺史跡めぐりのMAPがあります)。この少し手前左の坂道を南へ登って行くと、十二所神社で、道は神社で行き止まりです。神社手前右(道標があります)の畦道のような細い道?が登城道です。狭いものの、車は停められますが、コミュニティーセンターから神社までの坂道は狭いので、私はコミュニティーセンターの駐車場を拝借しました。
所要時間
コミュニティーセンターから詰の段まで約14~15分、今回の見学時間は1時間弱
形状
山城(標高377.5m、比高約130m)
現状・遺構等
【現状】 山林(城山公園)
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、石塁、堀切、石碑、標柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2015/02/18
歴史等
本山城は、この地の豪族本山氏の居城である。
本山氏の出自は定かでないが、中世に吾橋庄を中心として活躍した八木氏のあと、戦国の動乱期に現れたのは、養明・茂宗・茂辰の三代であった。
本山氏は、5千貫の所領を持つ「*土佐戦国の七守護」の一人と数えられた。しかし、山間部のため平地が少なく、地の利も不便であったため、養明のときに本山城から南へと侵攻をはかった。永正5年(1508)には、吉良氏・大平氏・山田氏らと長宗我部氏の居城岡豊城へ進軍し、兼序(元親の祖父)を討った。
本山茂宗(号を梅渓)の時代の大永7年(1527)頃には、南方の平野部に進出して浦戸湾から仁淀川流域におよぶ支配権を打ち立てた。そして、勢力の拡大に伴い、その拠点を朝倉城に移し、嫡男茂辰を本山城に置いた。
天文9年(1540)頃には、吉良氏を攻めて吉良城を落とし、茂宗の嫡男茂辰が入城して吉良氏を名乗った。
天文24年(1555)茂宗が死去し、家督を継承した茂辰は、一条氏とも戦い蓮池城を占領するなど全盛を築いた。
しかし、永禄3年(1560)長浜の合戦で長宗我部氏と対峙し、初陣の元親に敗れて朝倉城まで後退した。その後も鴨部周辺で激戦を繰り返したが、長宗我部氏の攻撃にあって、永禄6年(1563)には朝倉城を放棄し、本山城に退いた。
しかし、本山城も相次ぐ長宗我部氏の攻撃になすすべもなく奥地の瓜生野城に籠ったが、元亀2年(1571)頃、ついに長宗我部氏の軍門に降った。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』
*土佐戦国の七守護
中村御所の一条氏を別格に、岡豊城主長宗我部氏、 安芸城主安芸氏、 香宗城主香宗我部氏、 蓮池城主大平氏、 姫野々城主津野氏、 吉良城主吉良氏、本山城主本山氏の七家が「土佐戦国の七守護」と称されていた。
現況・登城記・感想等
戦国時代の土佐(四国というべきかも)といえば何と言っても長宗我部氏でしょう。
本山城は、その長宗我部氏と幾度も激突し、一時は長宗我部氏の本拠の岡豊城さえも落とし、土佐中原に勢力を誇った本山氏発祥の城ともいうべき城跡です。そんな本山城なので、是非、一度は登城したい城跡の一つでしたが、ネット等で調べると、その評価はあまり高くありませんでした。
しかし、実際に登城してみると、詰の段や二ノ段・三ノ段などを中心とする主郭部周辺には、曲輪や切岸、堀切、石垣・石塁・石段等が良好に残り、なかなか見応えがある城跡でした。
なかでも、詰の段と二ノ段周辺の石垣や三ノ段南西端を囲む石塁は、これほどしっかりした石垣が築かれているとは思っていなかったので得した気分になりました。
また、詰の段と二ノ段周囲の切岸もなかなかのものでした。
(2015/02/18登城して)
ギャラリー
本山城縄張略図
下手糞ですが「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」の縄張図を参考にして描いてみました。
土佐の城は、本丸・二の丸・三の丸を詰ノ段・二ノ段・三ノ段というように呼ぶようです。本山城は山頂部に詰ノ段を置き、その北側下に二ノ段、そして詰ノ段と二ノ段の東・北・西を三ノ段が取り囲んでいます。詰の段は2段になっており、南側は天守台のような造りです。また、三ノ段も2~3段の高低差があります。詰の段の南には幅の広い堀切で、南尾根と断ち切っています。
山頂部に
本山城周辺史跡めぐりMAP
本山町のコミュニティーセンターの東側に本山城周辺の史跡MAPがあります。これを見て、いざ登城です。
①本山城跡、②十二所神社、③山内刑部墓所、④上の坊、⑤土居屋敷跡です。MAPの現在地がコミュニティーセンターです。
【登城記】
いざ登城
コミュニティーセンターの手前を南の方へ延びる坂道を登って、まずは十二所神社方面へ向かいます。この坂道は狭い上に、かなりの急坂です。車で登って行けないことはありませんが、対向車が来た場合と十二所神社に駐車スペースがあるか分からなかったので、私はコミュニティーセンターの駐車場を拝借して歩いて登りました。
十二所神社前の分岐点
コミュニティーセンターから十二所神社までは1~2分ほどで到着します。車を1~2台ほど停めることのできるスペースがありました。神社手前(写真右)に道標があり、ここを右へ曲がって行きます。
畦道?
神社手前を右折し、畦道のような、土塁上のような道を進んで行きます。
登城口
畦道のような、土塁上のような道をしばらく歩いて行くと、本山城跡への登城口があります。登城口周辺は石垣の段々にある墓の中を歩いて行きます。
登城道
墓地を抜けても段曲輪状に石垣が築かれていますが、家臣団の住居跡なのでしょうか? 登城道は、さすが土佐の城跡でもメジャーなだけに整備が行き届いています。
石垣が・・・
コミュニティーセンターから歩くこと12~13分ほどで平坦地が現れ、その前方に石垣が見えてきます。詰の段北東部の石垣です。
二ノ段
坂を登り切ったところは、詰ノ段の北側下に位置する二ノ段になります。詰ノ段とは約4mの落差があり、広さは東西約27m×南北約11mほどです。尚、大正4年に農林省林業試験場森林測候所が設置され、そのとき詰ノ段と二ノ段は職員住宅の敷地として造成され、さらに第二次大戦後には射的場として転用されたりしたそうで、原形はかなり破壊されているそうです。
二ノ段から三ノ段の櫓台?を
二ノ段から北側下の三ノ段を見下ろすと、石垣が用いられた櫓台のようなのが見えました。
二ノ段から詰ノ段を望む
詰の段の北東部側面から北面にかけては石垣が用いられています。石垣は3段になっており、上段部はかなり崩れていますが、最下段の石垣は良好に残っています。
詰ノ段への虎口石垣と石段
詰ノ段への虎口は、北西部(二ノ段の南西部になる)にあり、石段が残っています。
詰ノ段へお石段
詰ノ段への石段は、虎口から右へ登ったあと、すぐに左へ急角度に曲がって登るようになっています。この石段周辺や側面の良好に残る石垣の苔むした姿がなかなか趣きがあります。
詰ノ段
詰の段は、南北26m余り、東西が広い所で16mほどあり、南北2段になっており、南側が1m半ほど高くなっています。南側の高い部分には立派な石碑が建てられています。
詰ノ段の一段高い南部分を
堀切
詰ノ段の南端から、南下を見下ろすと大堀切が見えます。この堀切は、南尾根とを断ち切るものですが、あまりにも堀底幅が広いので、当初は曲輪跡かと思ってしまいました。
堀切底から詰ノ段を望む
一旦、詰ノ段から二ノ段へ降り、詰ノ段の東側を通って堀切へ出ました。堀切と詰ノ段の高低差は8mほどある上、切り立った切岸はとても登れるようなものではなく、まさに、防御万全といったところです。
南尾根方面
堀切の南には、尾根が延びています。登って行こうかとも思いましたが、あまりの藪で断念しました(苦笑)。
三ノ段南西部の石塁を
堀切底から、詰ノ段の南西部下を廻って行くと、平坦地(三ノ段南西部)を取り囲む石塁が現れました。周辺は整備されているとは言えませんが、なかなか見応えがあります。また、詰ノ段(右)の切岸の凄さも分かって戴けると思います。
二ノ段西面の石垣
石塁を越え、北へ歩いて行くと、右側に石垣が見えて来ました。二ノ段の西面の石垣ですが、この石垣もなかなか良好に残っています。
三ノ段北西部の櫓台
さらに北へ向かって歩いて行くと、二ノ段から見下ろした石垣造りの櫓台のようなのがあります。位置的にも、櫓台と思うのですが・・・。
三ノ段北部分(上の段)
三ノ段は、詰ノ段と二ノ段の東・北・西を取り囲んでいますが、当写真は、その北側部分です。尚、三ノ段の北部分は二段になっており、写真左下にも平坦地が設けられています。
三ノ段北部分(下の段)
三ノ段の石段
三ノ段の下段と上段にも石段が良好に残っています。