主郭と南城間の空堀と土橋(空堀の奥の高台が主郭)
伊那で武田信玄に最後まで抵抗した藤沢氏の堅城
別名
鎌倉城
所在地
長野県箕輪町福与字南城1482-1
【アクセス】
箕輪南小学校のすぐ南側の高台上が城跡ですが、登城口は反対側(南側)になります。箕輪南小学校の南側の道を東へ道なりに(時計回りに)登って行くと途中に案内板が立っているので分かると思います。尚、箕輪南小学校の南西角にも案内があります。城跡前に駐車場(空地)があります。
箕輪南小学校:箕輪町三日町5、0265-79-2224
所要時間
駐車場から主郭まで3~4分。今回の見学時間は45分でした。
形状
平山城(標高710m、比高40m)
現状・遺構等
【現状】 畑ほか(県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板(縄張図付き)
満足度
★★★★☆
訪城日
2014/11/08
歴史等
福与城の築城は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかではない。
天文年代(1532~55)には藤沢頼親が城主として勢力を張った。
天文11年(1542)7月、武田晴信(信玄)は諏訪侵略をし、上原城・桑原城を攻め落した。さらに、高遠城の高遠頼継が起こした反抗もたちまちのうちに粉砕する一方、その翌日には信玄の信頼を受けていた駒井政武が伊那へ侵入し藤沢谷に放火すると、福与城の藤沢頼親もあっさりと降伏した。
しかし、諏訪一族や高遠のゲリラ隊は、その後もしきりに出没し、藤沢氏はかなりはっきりと反抗態度を見せた。それを知った信玄は、2年後の天文13年(1544)10月、これらに一撃を加えるべく高遠と結ぶ荒神山(辰野町)に陣を置き、福与城を攻撃したが、守りが固いことを見ると松島付近を焼いただけで引き揚げて行った。
そして、翌14年(1545)4月、信玄は高遠城へ入城し、再び福与城への攻撃を開始した。頼親は松尾城の小笠原信定をはじめとする上伊那衆・下伊那衆に援軍を求め抵抗したが、50日間の攻防の末、弟権次郎を人質に出し遂に和議・開城することとなった。
開城後、武田軍は福与城に火を放ったので、さしもの堅城も焼け落ちた。
尚、藤沢頼親は、その後、府中の小笠原長時に身を寄せたり、三好氏を頼って京都へのぼったりしてあちこちを放浪していたが、信玄の死後、また伊那へ舞い戻ると福与城からほど遠からぬ地に田中城を築いた。
しかし、頼親は織田信長が本能寺の変で倒れたあと、後北条氏に属したため、徳川氏に従った保科氏・知久氏・小笠原信嶺などから攻められ滅亡した。
『「信州の城と古戦場・南原公平著(しなのき書房刊)」、「日本城郭大系8」、「現地説明板」等参照』
現況・登城記・感想等
福与城は天竜川東岸段丘の先端部に、三角形状に縄張りされて築かれた平山城(崖端城)です。
一般的に段丘上の城は、先端部に主郭を置きますが、当城は、段丘の先端部の北城、西側の二ノ郭、南側の南城に主郭が囲まれた縄張りで、主郭東側は急崖になっています。
登城するにあたっては、南城区域まで車で行けるので、訪れた当初は何の変哲もない平城のように思えましたが、城跡を見て廻ると、三角形の先端部から延びる両辺は急崖となり、「北城と主郭・二ノ郭」、「主郭・二ノ郭と南城」を断ち切る空堀は規模が大きく、また南城の南側も大部分が急崖となっており、なかなか要害堅固な城であったことが分かりました。
現在、城跡は県指定史跡となり、南城はほとんどが畑地となっていますが、その他の区域は整備が行き届き、郭間を区切る大規模な空堀等の遺構が良好に残り、なかなか見応えがあります。
(2014/11/08登城して)
ギャラリー
福与城縄張図(現地説明板より)
福与城は天竜川東岸段丘の先端部に、三角形状に築かれた平山城(崖端城)です。一般的に段丘上の城は、先端部に主郭を置きますが、当城の主郭は、東側が急崖となり、段丘の先端部の北城、西側の二ノ郭、南側の南城に囲まれた縄張りとなっています。そして、各郭間は大規模な空堀で区切られています。
【登城記】
登城口
南城区域(上縄張図の現在地)まで車で行けます。登城口には大きな城址碑と縄張図付きの説明板があります。登城口から見ても、各郭が塁段になっているのがよく分かります。写真奥の高台が主郭で、説明板のすぐ後ろが乳母屋敷です。。
権治郭
登城口から右手(東)には段々畑(段郭跡)があり、一番奥の高い所が権治郭です。
乳母屋敷
乳母屋敷跡は畑になり、その奥は果樹園になっています。
いよいよ登城です
登城口から主郭へは、乳母屋敷跡の左下(西下)の道(写真左端)を進みます。当写真でも、南城の各郭が塁段になっているのがよく分かります。写真右の道は父母屋敷北側の空堀跡でしょうか。
主郭と南城間の空堀と土橋
主郭の手前には大規模な空堀があり、主郭と南城を断ち切っています。空堀には、土橋が架かり、その下は大きな鉄管が通されたトンネルになっています。土橋の幅が広すぎるようで、防御を考えると往時のものとは思えませんが・・・?
主郭下の腰郭
土橋を渡って主郭へ向かいます。主郭は2段になっています。
主郭下の腰郭から主郭と南城間の空堀を
土橋を渡って主郭下の腰郭から振り返って撮ったものです。空堀の幅はゆうに15mはあるでしょう。また、深さも、この腰郭から7~8mあるでしょう。
主郭下の腰郭と空堀・土橋を
当写真は主郭北東の斜面から撮ったものです。右の平坦地が主郭南下の腰郭で、左側に主郭と南城を断ち切る空堀、そこに架かる土橋が見えます。また、腰郭の奥には、かずかに二ノ郭(姫屋敷)跡が見えます。
主郭
主郭は、当城で最も高い場所にあり、東西50m×南北40mほどの広さです。
櫓台?
主郭南東隅には櫓台と思われる土壇があり石碑が立っています。石碑には「坐●●神」と刻まれていますが読めません。
主郭から南城を見下ろす
説明板にある縄張図のまま、各郭が良好に残っているのが分かります。
主郭から北城を
北城は、東西70m×南北80mほどの広さがあり、主郭との間が幅15mほどの空堀で断ち切られています。堀へ下りて行く道があります。
主郭と北城間の空堀
北城の東側面(急崖)
北城は、段丘の突端(北端)に位置し、東西両側とも写真のように急崖になっており、天然の要害地にあるのが分かります。また、勿論、本丸の東側も急崖になっています。
二ノ郭
二ノ郭は2段になっており、当写真は北側から撮ったものです。写真左奥の一段高い部分は、日本城郭大系の縄張図では「姫屋敷」となっています。
主郭と二ノ郭(姫屋敷)間の空堀
この主郭と二ノ郭(姫屋敷)間の空堀は、姫屋敷側(左側)は高さ2~3mほどですが、主郭側は7~8mほどあります。
姫屋敷と眺望
木曽駒ケ岳をはじめ、中央アルプスの山並みが見えます。
姫屋敷から主郭南西部角の空堀を
主郭と南城間の空堀と土橋を堀底から
土橋下には大きな鉄管が通るトンネルが造られていますが、何のためでしょうねえ?
権治郭
一通り見終わったあと、権治郭へ行って見ました。郭の北部分は畑になっていましたが、広い南部分は畑の跡のようでしたが、ほとんど荒地のようでした。
権治郭から南城を
南城跡の多くは畑などになっていますが、段郭状になっており、往時の様子が良好に残っているようです。当城跡では、ここからの眺める中央アルプスの景色が一番いいようです。