城址入口の石碑と説明板
武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の本拠
長野県茅野市ちの字上原
形状
山城(標高:978m、比高:133m{板垣平から})
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:主郭、二の郭、三の郭、空堀、土塁、物見岩、板垣平には居館跡、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2004/04/30
歴史等
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高978m)にある。その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・空掘・
物見石等があり、城山の中腹の小家板垣平(おおよそ1ha)には居館跡がある。この城は北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城をひかえ、
前方南には上川や宮川を隔てて千沢城に対し、
諏訪上社(本宮・前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。
築城の年代は明らかでないが、室町時代の後期、文正元年(1466)頃より諏訪惣領家当主・信満がこの城の中腹に館を構え、
上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満-政満-頼満-頼隆-頼重の5代70余年にわたり諏訪地方を統治したが、天文11年
(1542)7月甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ惣領家諏訪氏は滅亡した。
以後、上原城とその館は武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として天正10年(1582)武田氏の滅亡まで約40年間続いた。
この城跡は昭和46年5月27日、長野県史跡に指定された。なお、三の郭にある金毘羅神社は頼岳寺18世尊応が文化2年(1805)
に頼岳寺鎮守神ろして、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
長野県教育委員会 茅野市教育委員会 現地案内板より
訪城日
2004/04/30
現況・登城記・感想等
自動車で上まで上がり、駐車場から歩いて行くと、いきなり左側にかなり深く、大掛かりな空堀がある。その空堀に沿って歩いて行くと、
大きな岩が右上に見える。注連縄が巻いてあるが、物見岩である。
三の郭・二の郭・主郭がはっきり残っている。主郭はかなり崩れてはいるものの、結構大きな石垣で構築されていた。また、
二の郭からは眼下に諏訪湖方面が木々の間から見える。
山麓の板垣平の方へ降りて行くと、諏訪氏館跡があり、そこには立派な石碑と説明板がある。また、このあたりから登り口があるようであった。
ここから、歩いて登るべきであったかもしれない。結構見るものは多かったが、その割には印象が薄い。やはり、
山城は下から登った方が感動は大きい。
(2004/04/30訪城後)
ギャラリー
上原城址遠景
空堀(竪堀)
駐車場から歩いて行くと、
いきなり左側に大規模な空堀がある。竪堀となって山裾へ落ちていっている。
主郭背後の大堀切
そして右手には主郭背後の大堀切が見える。主郭上まで高さ10mはあるだろう。
物見岩
2段上写真の空堀に沿って歩いて行くと、大きな岩が右上に見える。注連縄が巻いてあるが、
物見岩である。この物見岩のあるところが二の郭である。
二の郭からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
二の郭からは眼下に諏訪湖方面が木々の間から見える。
右端に諏訪湖が少しだけ見える。
主郭跡
主郭跡は金毘羅山の最高所にあり、
標高978mである。主郭の大きさは、南北30m、東西20mほどで、三方に低い土塁跡を残し、南西隅に虎口を開いている。
主郭斜面の岩
往時は主郭の斜面は石垣でもあったかのように巨岩が一杯転がっているが、
当時のこの地区の技術ではこれだけの岩を石垣として組むのは無理だっただろうね。
諏訪氏館跡
諏訪氏館は面積約1haある。
室町時代の後期、諏訪惣領家の諏訪信満が文正元年(1466)頃に、この地に館を構え、上原郷に城下町を形成し、その後、頼重まで、
5代70余年にわたって諏訪地方を統治した。
天文11年(1542)に、武田信玄により、諏訪頼重が滅ぼされて以降は、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の邸が造立された。そして、
天正10年(1582)3月まで40年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった。今日でも、この地籍は字名を「板垣平」と呼んでいる。
諏訪氏館跡の石碑