箕輪城主郭南西隅の土塁
福与城の支城、主郭周囲の大規模な土塁と空堀が残る
所在地
長野県箕輪町中箕輪13823
【アクセス】
養泰寺の背後(西)の台地(墓地)が城跡で、登城口(墓地入口)に2台ほど駐車可能で、寺にも駐車場があります。
養泰寺:箕輪町中箕輪、0265-79-2645
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 墓地
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2014/11/08
歴史等
箕輪城の築城年代は不明であるが、代々箕輪氏が居城した。
箕輪氏は木曽氏の末流高遠太郎義信を祖とし、その嫡男箕輪左衛門義雄が文安2年(1445)に死亡したと伝えられることから、室町時代初期頃の築城と考えられる。
天文の初め頃(1532~)は、福与城主の持城で木下総蔵が居城し、総蔵が下伊那へ移った後は福与城主藤沢頼親の養子・左衛門尉重時がここに拠ったが、天正10年(1582)田中城主の藤沢頼親と共に滅亡したといわれている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
箕輪城は、段丘先端部を利用して築かれた平山城です。当時の規模は分からないようですが、現在、墓地となっている周囲より一段高くなっているところが主郭と思われます。
主郭は単郭構造で、その規模は東西40~50m×南北60mほどあり、急崖となっている東側を除き、三方を規模の大きな土塁で囲まれています。
また、西側と南側には空堀も残っています。特に、台地続きとなっている西側の防御は厳重で、現在、外堀部分は道路になっていますが、当時は二重空堀だったようで、大規模な土塁とともに見応えがあります。
尚、北側も、現在は道路になっていますが、明らかに空堀を利用したもののようです。
(2014/11/08登城して)
ギャラリー
登城口に立つ説明板と碑
養泰寺の背後(西)の台地(墓地)が城跡で入口には説明板が立っています。写真奥に見える高台上が主郭です。
主郭
主郭跡は墓地となり、東側を除く三方を大規模な土塁がめぐっています。
南側土塁
土塁は郭内から高さ3~4mほどあり、上部幅も3~4mほどある立派なものです。土塁の上を歩いて行くことができます。
南側空堀
南側の土塁上に登ると、左(南)下に堀切が見えます。この堀切も、上部幅8~9mほど、深さ4~5mほどある大規模なもので、竪堀となって東下(写真左)へと下りていってます。
主郭南西隅の土塁
西側の土塁
西側の土塁は緩やかな曲線を描き、南北の両端が外側(西側)に張り出しており、ちょっとした横矢がかかった構造になっています。
主郭北西隅の土塁
西側の内堀
西側土塁の外側(西側)にも規模の大きな空堀が残っています。
西側の二重空堀
西側の防御は厳重で、現在、外堀部分は道路(写真右端)になっていますが、当時は二重空堀だったようです。
主郭南西隅の空堀
主郭の外側から撮ったもので、写真右が南になります。右側の空堀は、奥(東)の方へ延び、左下の空堀は左(北)の方へ延びています。
南側の空堀
堀底から撮ったもので、奥(東下)へ竪堀となって落ちて行ってます。
主郭東側の崖
主郭の東側は急崖で天然の切岸となっています。ゆうに高さ10m以上はあります。
北側の空堀
墓地(主郭)の北側は、現在、道路が通っていますが、明らかに空堀(堀切)を利用したものでしょう。