相模 石垣山城(小田原市)

井戸曲輪跡の石垣

小田原城攻略のために築かれた天下人・秀吉の巨大山城

別名

石垣山一夜城、太閤一夜城、笠懸山城

所在地

神奈川県小田原市早川

形状

山城(陣城)
標高261.5m、比高227m(小田原城本丸から)

現状・遺構等

現状:一夜城歴史公園(山林)
遺構等:天守台、曲輪、土塁、石垣、空堀、井戸跡、門跡、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和34年5月13日
指定理由:天正18年の小田原戦役当時の形態の大半が残っており、桃山時代初期の石垣の城として重要
面積:5万2,196㎡
資料館:なし

満足度

★★★★★

訪城日

2002/03/10
2008/06/25
2011/03/05
2014/11/18

歴史等

九州平定を終えた豊臣秀吉は天正17年(1589)北条氏討伐を決定し、翌天正18年(1590)3月1日、大軍を動員して京都を発った。3月29日には北条方の箱根の押さえである山中城をわずか2時間ほどの攻防で落城させ、難なく箱根を越えることが出来た。4月6日には箱根湯本に達し、湯本早雲寺に当座の本陣を置き、翌日には22万の兵力を持って北条氏の居城小田原城を取り囲んだ。同時に、この頃から笠懸山に石垣山城の築城を開始し、諸大名から石工の穴太衆を出させるなどして普請を進め、同年6月26日には城が一応完成し、秀吉は本陣を石垣山城に移した。秀吉は、完成と同時に一夜のうちに周囲の山林を切り払ったため、北条方からは一夜のうちに城が出現したように見えて、一夜城とも呼ばれる由来になった。その城は関東で初めての総石垣で、天守閣・本丸・二の丸をも備えた城で、聚楽第や大阪城に匹敵するものであった。
秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せた。また、自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうように勧めたと云われている。
また、この城は関東で最初に造られた石垣の城である。
この城の出現によって士気の下がった北条氏は7月5日に当主北条氏直が降伏して戦いに幕を閉じた。石垣山城は、徳川家康の家臣で小田原城主となった大久保忠世の手に渡ったが、 小田原落城後、陣城としての役割は終わり、廃城となった。
しかし、城跡は江戸時代を通じて小田原藩の管理下に置かれ保存されていたが関東大震災により石垣の大部分が崩壊した。
『参考:「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本の史跡7近世近代(同朋社刊)」』

現況・登城記・感想等

一夜城なんてとんでもない。大変な規模の本格的な城で、同じく陣城の名護屋城と同様、秀吉の派手好みでスケールの大きさと酔狂をつくづく感じる。
いたる所に築かれた石垣とそこらじゅうに散乱している石や本丸・二の丸・西曲輪・南曲輪など非常に広い曲輪跡等々が、往時の大規模な城の情景を、まざまざと思い浮かばせてくれる。最初から一夜城ではなく、本格的な城跡を見に来たつもりでも、そのスケールの大きさには驚く。
この城址の最大の見所は、何と言っても全山に張り巡らされた石垣であろう。
南曲輪下から西曲輪下にかけて長く続く石垣は、かなり崩れ落ちてはいるが、どちらの石垣もかなりの高さをほこり、充分見応えがある。本丸下(二の丸側)の高石垣も、やはりかなり崩れてはいるが見事なものである。
中でも印象的なのは井戸曲輪の石垣である。こんな大掛かりな井戸曲輪跡や井戸石垣は、他には類を見ないであろう。
また、南曲輪へと向かう道は、崩れた石垣の石がごろごろ転がっていて、まさに「滅びの美」を堪能できる。この城址を見て廻るなら、綺麗に整備された遊歩道を登るのではなく、途中説明板のある前を左折して、本来の城道である南曲輪経由での登城をお薦めする。
(2002/03/10、2008/06/25登城して)

箱根旅行のついでに登城した。曲輪や天守台を固める崩れ落ちた石垣や大規模な井戸曲輪の石垣等々、この壮大な城址は何度見ても飽きない。
関東大震災で、石垣が大きく崩れたそうだが、今回登城した後に、東日本大震災があった。また、崩れたのではないかと心配している。
(2011/03/05登城して)


久し振りに登城しました。駐車場が随分きれいに整備され、多くの人が訪れていました。
尚、東日本大震災による被害はほとんどなかったようです。
(2014/11/18登城して)

ギャラリー

縄張略図
城の縄張は、南北に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されている。この他、本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群がある。現在、遺構が確認できる範囲は、出城から北曲輪までで、南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mある。 
石垣山城案内図

(東)登城口
城道は、この南曲輪から本丸本丸へ至る東口ルート(右の遊歩道を少し登った所の説明板前を左折)と井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートの2筋があった(上の略図参照)。写真左奥の石垣は南曲輪の石垣。 
登城口

南曲輪下の石垣
駐車場のすぐ前に見えるこの南曲輪下の石垣は、かなり崩れ落ちてはいるものの、角も何とか残り見応え充分だ。角は、まだ完全な算木積みではなかったようだ。
南曲輪石垣

南曲輪下から西曲輪下に続く石垣
上写真の南曲輪角の石垣から長~く続く西曲輪下の石垣は実に見応えがある。 
西曲輪下石垣

南曲輪への道
南曲輪へと向かう道は、崩れた石垣の石がごろごろ転がっていて、まさに「滅びの美」を堪能できる。石垣山城址を見て廻るなら、綺麗に整備された遊歩道を登るのではなく、この本来の城道である南曲輪経由での登城をお薦めする。 
南曲輪への道

南曲輪 
南曲輪

南曲輪から本丸方面及び西曲輪方面への道
突き当たりを右へ行くと本丸方面、左へ行くと西の丸へ。 
南曲輪から本丸及び西曲輪への道

西曲輪
西曲輪は、かなりの広さである。正面のこんもりした丘(森)の上が天守台で、その下には崩れた天守台石垣の石が転がっている。
西曲輪

西曲輪から見上げる天守台と崩れ落ち散乱している天守台石垣の石
西曲輪から見上げる天守台

本丸
本丸は、非常にひろい。写真奥が天守台。 
本丸から天守台へ

本丸物見台から眼下の小田原城を
小田原城へは、わずか3kmです、復元された天守がよく見えます。但し、往時の本丸は、もっと左側の高台にあったようで、その本丸付近もよく見えます。
小田原城遠景1 

本丸枡形鍵折れの虎口門跡
枡形虎口をいくつも造る城郭構造は、まさに秀吉の特徴である。他にも一杯あったが、ここが最も良好に?残っている。 
本丸枡形虎口

本丸下(二の丸側)の石垣
本丸下(二の丸側)の高石垣も、やはりかなり崩れてはいるが見事なものである。関東大震災の前に登城してみたかった!! 
本丸下石垣

二の丸
二の丸は、非常に広く、今は芝生が敷かれ、市民(ファミリー)達の憩いの広場になっている、
二の丸

二の丸から本丸を
二の丸から本丸を仰ぎ見ると、この城が如何に大規模で本格的な城であったかを実感する。 
二の丸から本丸を

二の丸の櫓台跡
二の丸北側の方に櫓台跡が。この裏側に井戸曲輪への道(もう一つの城道)がある。 
二の丸櫓台

二の丸最北の展望台から小田原城を
二の丸の北端に展望台がある。ここからも眼下に小田原城の天守がよく見える。ようするに、城のほとんどの所から見下ろすことが出来たということだね。北条氏もガックリくるわなあ!
ただ、何度も来るたびに、手前の木々が伸びて高くなり、天守が見えづらくなってきています。
 
小田原城遠景2

井戸曲輪
井戸曲輪の石垣は実にインパクトがある。こんな大掛かりな井戸曲輪跡や井戸石垣に出会ったことは、他には未だにない。
井戸曲輪

井戸跡
井戸には、今も水が湛えられています。
井戸

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コメント

wy1(2010/12/01)

石垣山についての私だけの想像ですか、このような場所を元々後北條氏が全く防御用の場所として注目していなかった筈がないと思います。如何思われますか?誰もこんなことを言って居るのを知りません。小田原の町の外ですが、如何見ても重要ような場所ですね。

wy1(2010/12/01)

石垣山についての私だけの想像ですか、このような場所を元々後北條氏が全く防御用の場所として注目していなかった筈がないと思います。如何思われますか?誰もこんなことを言って居るのを知りません。小田原の町の外ですが、如何見ても重要ような場所ですね。

wy1(2010/12/01)

写真の小田原城は江戸時代の場所ですね。後北條氏の本丸は見えますか? 位置的に、なぜこの場所に北條氏は何の防護施設を作っていなかったのでしょうか。

タクジロー(2010/12/01)

写真の小田原城は江戸時代の場所です。尤も、後北条氏の城の一部でもありますが。
当時の本丸方面は、石垣山城の北曲輪からよく見えます。今は、住宅地になっているので、現在の復興天守を掲載しました。
誤解しやすいですね。失礼しました。
また、この場所はそれまでの後北条氏を取り囲む上杉氏や武田氏の軍勢や軍隊組織による攻撃では、ここまで拡大する戦局は考えられなかったのではないでしょうか。

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