土佐 本山土居(本山町)

本山土居南面の石垣と切岸

本山城主本山氏の土居、江戸期には土佐藩奉行野中兼山が住んだことも

所在地

高知県長岡郡本山町本山377-2、上街公園
【アクセス】
本山町役場から1本南側の通りを200m程するとコミュニティセンターに突き当たります(本山城周辺史跡めぐりのMAPがあります)。センターの南側の道を300mほど西進したところを右(北)へ曲がると左上に土居跡の石垣が見えます。私は、コミュニティーセンターから歩いて行きましたが、土居跡の北東に駐車場もあります。
(本山城周辺史跡めぐりのMAP)
①本山城跡、②十二所神社、③山内刑部墓所、④上の坊、⑤土居屋敷跡です。MAPの現在地がコミュニティーセンターです。
01案内板

形状

現状・遺構等

【現状】 上街公園
【遺構等】 曲輪、石垣、切岸、説明板、標柱

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2015/02/18

歴史等

本山土居は、本山城主本山氏の土居の一つで、天正17年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。
山内一豊の土佐入国後の慶長6年(1601)山内刑部(永原一照)が本山三千石を与えられて住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和6年(1620)知行を没収されて、佐川の深尾家に預けられたため、それ以来、本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永7年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増され、その後、養嗣子兼山が受け継いだ。兼山は藩主(高知城主)忠義の厚い信頼を得て、藩奉行職として敏腕を発揮するとともに、本山領主としても多くの新田開発をした。
寛文3年(1663)、兼山が失脚したあと、本山土居は山内下総、次いで孕石頼母らによって管理されたが、明治になって全ての建物が取り壊され、今はその石垣に面影を偲ぶばかりである。
『現地説明板参照』

【土居とは?】
中世の山城では、麓に居館を造り、戦のないときは、そこで城主たちが生活をしていました。居館は「土居」とも呼ばれ、山城の居住地を「山下の土居」と書いて「さんげのどい」と読みます。「土居」の地名が残る場所は、かつての居住地だったと考えられています。

現況・登城記・感想等

本山土居跡は、民家が密集する町の高台上にあります。
2段になった主郭部が残り、今では「上街公園」として町民の憩いの広場となっています。
遺構としては石垣の一部が残っているだけですが、主郭南東部から南面にかけて残る高さ3mほどの石垣は切岸とともに、なかなかのものです。
(2015/02/18訪れて)

ギャラリー

土居跡が
コミュニティーセンターから300mほど西進したところの路地を右へ曲がると、左前方上に土居跡が見えて来ます。本来は、その南東から登れるようですが、当日は工事中で登ることができませんでした。
 
01土居が

土居跡南面を望む
土居跡南面の切岸と石垣はなかなかのものです。高低差8m以上あるでしょうか?
03切岸

土居跡東面を
土居跡は、2段からなっており、1段低い東部分は児童公園になっていました。工事中ということで、主郭東面の石垣(写真中央奥)や南東部から登って来る石段等の写真を撮り忘れてしまいました(/。ヽ)。尚、背後の山が本山城跡です。
05二郭

主郭
主郭は、一段高く、かなりの広さがあります。
07主郭

石碑と標柱
主郭の北端には石碑と城址標柱が建てられていますが、石碑の文字が読めず、城址碑かどうかは不明です。
09石碑

主郭西面切岸
主郭の西面は、高さ2mほどあり、南部分には石垣が残っています。往時は全面石垣で固められていたのかもしれません。
11切岸

主郭西面南部分の石垣
なかなか綺麗な石垣です。特に、ちょっとした算木積みのような角部がかっこいいですね。
13西面石垣

主郭南東部から南面にかけての石垣
この辺りの石垣が往時を最も偲ばせてくれる部分でしょうね。なかなかかっこいいです。
15南面石垣

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