土佐 吉良城(高知市)

吉良城、北嶺と南嶺を断ち切る堀切

源頼朝の弟希義の後裔と伝える吉良氏の城、その後、本山氏・長宗我部氏の城に

別名

吉良嶺城

所在地

高知県高知市春野町弘岡上
【アクセス】
春野弘岡上保育園の東側の道を200m程北上すると案内板があります。案内板前の道路余白に路駐して徒歩で案内の看板に従い北東へ向かいます。
春野弘岡上保育園:春野町弘岡上1294、電話:088-894-5047

所要時間

駐車場所から北嶺と南嶺間の堀切まで13~14分、今回の所要時間は1時間

形状

山城(南嶺:標高115.4m、北嶺:111.2m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、竪堀、畝状竪堀、堀切、狼煙台?、石積み?、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2015/02/19

歴史等

吉良城主吉良氏は、平治元年(1159)の平治の乱後、土佐に配流された源頼朝の同母弟・希義の後裔とも伝えられるが定かではない。
吉良氏は、弘岡村(現高知市春野町弘岡)の国人として勢力を拡大し、南北両嶺の吉良嶺城(吉良城)を築城、5千貫の所領を持つ「土佐戦国の七守護」の一人にまで成長した。
特に、吉良宣経の頃が全盛で、儒教政治をすすめた名将名君の戦国武将としての名声が高かった。なかでも、周防から儒学者の南村梅軒を招き、土佐南学(朱子学)の基礎を築いたことは有名である。
当時、この付近の勢力分野は、本山城を拠点とする本山氏が、朝倉城まで進出し、高知平野をその支配下にするべく野望に燃えていた。天文9年(1540)、本山氏は宣経の子・宣直が城をあけて仁淀川で鮎漁に興じる隙をみて奇襲をかけ、吉良城を落とし、宣直は敗死し、名門吉良氏は滅亡した。
そして、吉良城へは本山茂辰(梅慶の嫡男)が入城し、吉良氏を名乗った。
しかし、間もなく東方から勢力を伸ばしてきた長宗我部氏の勢力に押され、本山氏配下の支城が落とされ、永禄6年(1563)には拠点朝倉城も失い、茂辰は本山城へ敗走した。
長宗我部元親は弟の親貞が入城させ、吉良氏を名乗らせた。
元親の土佐統一後、親貞は中村城に移ったが、間もなく死去。嗣子・親実が後を継いだが、元親の後継問題で元親の怒りにふれて自害。吉良氏の名も消滅し、吉良城も廃城となった。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』

土佐戦国の七守護
中村御所の一条氏を別格に、岡豊城主長宗我部氏、 安芸城主安芸氏、 香宗城主香宗我部氏、 蓮池城主大平氏、 姫野々城主津野氏、 吉良城主吉良氏本山城主本山氏の七家が「土佐戦国の七守護」と称されていた。

現況・登城記・感想等

吉良城は、詰を中心とする北曲輪群(北嶺)と南ノ段を中心とする南曲輪群(南嶺)とからなっています。
城の規模は、さほど大きくはないものの、曲輪周囲は急崖な上、畝状竪堀群や多くの堀切が構えられた堅固な城構えの山城です。
ただ、多くの部分が竹藪や雑木林となり、確認出来なかったのが残念です。
そんな中で、強烈なインパクトを与えてくれたのが、北嶺と南嶺間を断ち切る堀切です。その堀切は、岩盤を削り取った荒々しい姿をしており、深さ3.3m、幅5.5mあります。
そして、何より印象に残ったのが、その堀切に架けられた太い孟宗竹の丸太が束ねられただけの橋です。何とも安定感がなく、へっぴり腰で渡りました(笑)。
(2015/02/19登城して)

ギャラリー

【登城記】
春野弘岡上保育園の東側の道を200m程北上してくると、右手に薄くなった案内板(写真左)が立っています。その手前には充分な駐車スペースがあったので、そこの車を停めて、いざ登城!!
01駐車

吉良城址遠望
案内板前の道を北東へ向かって歩いて行くと、梅林があり、その手前に「←吉良城跡登り口」の案内板が立っています。その背後には「吉良城跡」が見えます。
03全景

登城口(吉良城跡の山中へ・・・)
案内板に従って歩いて行くと、途中に、説明板と案内板が立っています。そこをさらに歩いて行くと、またまた案内板が立っています。有難いですネ(*^_^*)。そこから山中へ入って行きます。
05登城口

分岐
山中へ入ってしばらく登って行くと、またまた案内板が立っていますので、その前を右へ曲がり、細~い登城道を登って行きます。この案内板が立っていなかったら、おそらく真っ直ぐ歩いて行ってしまうところでした。
07分岐

登城道
登城道は、かなりの急坂道のため、時々、滑り落ちそうになります。一部は、南嶺の西側の竪堀を登ります。足元を固めて登城することが必須です。 
09登城道

北一ノ段(北嶺と南嶺の分岐点)
登城口から急斜面の道を登ること10分ほどで、北嶺と南嶺を繋ぐ尾根(北一ノ段)へ到着します。途中、西二ノ段、西一ノ段を通ってきます。左(写真奥)へ向かうと、堀切を渡って北嶺(詰ノ段)で、右(写真手前)へ登ると南嶺(南ノ段)です。
11北嶺と南嶺の分岐

南ノ段へ・・・
北一ノ段から、まずは南嶺(南ノ段)へ、これまた急斜面を登って行きます。
IMG_4519

南ノ段
南ノ段は、標高115.4mで、長さ49m、最大幅8.8mの細長い曲輪です。何故か、北端にでっかい穴があいていますが、落ち葉を捨てるための穴でしょうか?
13南ノ段

南ノ段からの眺望
南ノ段の南端は、眺望が開け、春野平野が一望できます。この下には南二ノ段、南三ノ段があるらしいのですが、あまりにも急崖で下りて行くのは断念。
15南嶺からの眺望

北嶺と南嶺を断ち切る大堀切
北一ノ段へ下りて、北嶺へ向かうと堀切が現れますw(*゚o゚*)w。岩盤を削り取った荒々しい姿をしており、深さ3.3m、幅5.5mあります。
17堀切

竹橋を渡る
堀切には、太い孟宗竹の丸太が束ねられただけの橋が架かっています。何とも安定感がなく、へっぴり腰で渡りました(笑)。写真は、へっぴり腰の増っさんです。
19竹橋

堀切(堀底にて)
岩盤を切り取った荒々しい堀切の様子が分かって戴けると思います。
21堀切

北嶺を望む
竹橋を渡ると、正面に北嶺(詰ノ段)の切岸が現れます。
23北嶺

詰ノ段へ・・・
詰ノ段の切岸下を行くと、左上に石積みが見え、そこへ登れそうな斜面があったので登って行きました。この石積みが、往時のものかどうかは分かりません。

25石積み

詰ノ段
詰ノ段は、標高111.2mで、南北約50m、東西約20mほどの広さがあります。南端部(写真奥)に高さ1.8mほどの狼煙台状の遺構がありますが、曲輪周囲に土塁などはめぐらせていません。尚、北から東にかけて柵列が確認されたそうです。
27詰

狼煙台状の遺構とブランコ
詰ノ段中央の松ノ木の枝を利用したブランコが・・・(*^_^*)。
29土壇とブランコ

北ノ段
詰ノ段の切岸に沿った細~い道?を北の方へ向かって歩いて行くと、詰ノ段北下の北ノ段へ出ます。
31北ノ段へ

詰ノ段の切岸(北ノ段から詰ノ段を見上げる)
北ノ段から詰ノ段上までは高低差10m近くあります。強烈な切岸で、登るのは不可能です。切岸の一番下に石積みが確認されましたが、往時のものかどうかは分かりません。
33北の段から詰を

北ノ段北側の堀切
北ノ段の北は、大規模な急崖の堀切と竪堀で吉良ヶ嶺からの尾根を遮断しているらしいので、北側下を覗くと、強烈な急崖下(高低差10m以上ありそうです)の向こうに堀切らしきものが見えましたが、あまりの急斜面で下りて行くのは断念しました。
35堀切?

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