三の段の石垣と礎石建物跡
四国の覇者長宗我部氏累代の本拠
読み方
おこうじょう
所在地
高知県南国市岡豊町八幡
【アクセス】
高知県立歴史民俗資料館の裏山が城跡で、資料館の駐車場が利用できます。
高知県立歴史民俗資料館:南国市岡豊町八幡1099-1、電話088-862-2211
所要時間
資料館駐車場から詰まで約10分。今回の見学時間(除厩曲輪跡)は40分弱。
形状
平山城(標高97m)
現状・遺構等
【現状】 城址公園
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀、堀切、建物礎石、井戸、石碑、説明板、遺構説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/05/03
歴史等
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住したのが、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。
戦国時代の土佐では、京都の戦火を避けて中村に下向した一条氏をはじめ、津野氏・大平氏・吉良氏・本山氏・長宗我部氏・山田氏・香宗我部氏・安芸氏の各豪族が対立・同盟を繰り返していた。特に、土佐中郡をめぐる争いは、本山氏と長宗我部氏の覇権争いであった。本山氏は本山町を中心に本山城を築き、勢力を拡大していった。
永正4年(1507)に、土佐守護の細川政元が暗殺されると、均衡が崩れ、永正5年(1508)には、本山・山田・吉良・大平氏らが岡豊城の長宗我部氏を攻め、元秀(兼序)を自殺に追い込んだ。
中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の嫡男国親は、一条氏の取り成しで、永正13年(1516)に旧領に復し岡豊城に入った。本山氏は、南部まで進出し、土佐の中原を臨む朝倉城(高知市朝倉)を新たな本拠地とし、岡豊城の国親と対峙するようになった。
永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権を賭けた本山氏との激戦の最中、突如国親が病死してしまい、元親が、ただちに家督を相続し、長宗我部家21代当主となった。その後、元親は本山氏との死闘に打ち勝って朝倉城を奪い、土佐中央部を手中に収めた。
勢いに乗った元親は、その他の有力国人を相次いで降伏させた後、さらに土佐一条氏の所領も併せ、天正3年(1575)念願の土佐統一を果たした。
その後、天正10年(1582)には阿波を、同12年(1584)には讃岐の大部分も手中にした。伊予の平定には苦戦が続いたが、同13年(1585)には、ほぼ四国を統一した。
しかし、同年、豊臣秀吉の侵攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城(後の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さから再び岡豊城を本拠とした。
しかし、天正19年(1591)浦戸に新城を築いて移住したため、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
『「高知県歴史民族資料館小冊子」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
岡豊城は、最高所に「詰」があり、その東側に二の段、西側に三の段・四の段が配置されている。
岡豊山の中腹のかつては曲輪があった場所に県立歴史民族資料館がある。ここには長宗我部氏関連の資料が結構展示されている。
岡豊城へは、この資料館の奥に登城道が整備されている。まず、二の段へ登る。二の段からの眺望はよく、ここから見える一帯は「土佐のまほろば」と言われる地域で、比江廃寺・土佐国分寺・土佐国府跡などの史跡・文化財が多く残されたところであるとのことである。
二の段と詰との間には堀切があり、堀切の中に井戸が残っている。「詰」には、建物の礎石と南面に土塁が残っている。
この城の一番の見所は、この「詰」の下にある三の段の土塁、石垣、建物の礎石群、虎口付近の石垣であろう。
また、四の段にある虎口も見応えがある。三の段から四の段にかけての風情は、往時を偲ばせてくれる。
長宗我部氏の本拠の城のわりには、想像していたよりも小規模な城郭であった。尤も、四国平定前の城だから、こんなものかもしれないね。
(2007/05/03登城して)
ギャラリー
岡豊城城址案内図 ~現地案内板より~
岡豊城登城口
資料館の奥に登城道が整備されている。
「二ノ段」と「詰」の間の堀切
まず二ノ段へ向かうと、「詰」と「二ノ段」の間を断ち切る堀切が現れます。岡豊城には他に、北に延びる尾根上に2本、西の伝厩曲輪との間に2本、同じ曲輪の北西部に2本が設けられ、いずれも幅3~4m、深さ2m前後であり、中でもこの堀切が最大のものです。(現地説明板より)
堀切にある井戸
堀切のほぼ中央に井戸が掘られています。岩盤を3.6m掘り込んであり、雨水を溜める溜井として使われていたようです。
二ノ段
堀切によって「詰」と隔てられた二ノ段は、長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形で、南部には高さ60cmの土塁が30mにわたって残っていましたが、1985年と1988年の発掘調査の結果、土塁は幅約3m、高さが1mであったことが確認されました。(現地説明板より)
二の段からの眺め
二の段からの眺望はよく、ここから見える一帯は「土佐のまほろば」と言われる地域で、比江廃寺・土佐国分寺・土佐国府跡などの史跡・文化財が多く残されたところとのことです。
「詰下段」の礎石建物跡と土塁
「詰下段」は、詰の東に付属する小曲輪で、二ノ段から詰への出入口を守るための曲輪であったと考えられ、礎石建物跡や土塁が残っています。礎石建物跡は2間×5間(5.8m×9.2m)で、東の土塁と西の詰斜面に接して建てられ、礎石には40~60cmの割石が使用され半間ごとに置かれています。土塁は幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基礎部には土留めのために2~3段の石積みがあります。(現地説明板より)
「詰」
「詰」は岡豊城の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にあります。一辺40mのほぼ三角形状で、東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、四ノ段が「詰」を取り巻くように造られています。発掘調査では石敷遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されたが、岡豊城の中心となる建物と考えられます。また、西部には土塁が残されていますが、築城当時には周囲を囲っていたと考えられます。尚、遺物には「天正三年・・・」の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、輸入陶磁器、渡来銭、懸仏などがあります。(現地説明板より)
「詰」の建物礎石と土塁
「詰」には建物の礎石と南面に土塁が残り、三の段への虎口が2ヶ所、小曲輪への虎口が1箇所あります。
礎石建物跡は「詰」の南西部で発見された。この建物跡の南端は40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mに敷いた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いています。建物跡は、5間×4間(10.4m×7.2m)と1間弱×1間強(1.4m×2.0m)の2棟で、面積は75㎡と3㎡で、この2棟は石敷遺構で繋がっています。尚、この「詰」の建物跡は、その位置や基礎からみれば、近世城郭の天守の前身とみられる2層以上の建物であったと考えられます。(現地説明板より)
三ノ段
岡豊城跡の最大の見どころは、三ノ段の土塁、石垣、礎石建物跡などでしょう。
三ノ段は、「詰」の南と西を囲む曲輪で、南部は幅5m、西部は幅3~8mの帯状になっています。発掘調査では、礎石建物跡1棟と中央部に「詰」への通路となる階段跡、そして土塁の内側に石垣が発見されました。岡豊城の土塁には石垣は使われていないと考えられていましたが、20~40cmの割石を1mほど積んだ石垣が西部の土塁にあることが分かりました。石垣の北半分はよく残っていましたが、南半分は崩れていました。(現地説明板より)
三の段の石垣と礎石建物跡
三ノ段では西部の北半分に礎石建物跡があ1棟発見されました。この建物は三ノ段いっぱいに建てられています。大きさは南北9間(16.9m)で、幅は北半部が4間(8.6m)、南半部が3間(6.2m)と2つの部分に分かれています。建物跡の面積は125㎡と大きく、「詰」に接しています。礎石は50~60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれています。また、北半分では礎石間に列石が見られます。尚、建物跡からは鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土しています。(現地説明板より)
四の段の2つの虎口
この四の段から、写真左側の厩曲輪跡等へ出る虎口と右側の詰の下(三の段横)にある小曲輪への両虎口はなかなかよく残り、見応えがある。
伝厩曲輪跡等方面への虎口
「詰」の下(三の段横)の小曲輪への虎口
展望広場
四ノ段の南西には展望台があります。現地案内板や資料館のパンフレットには何も説明がありませんが、見晴らしの良さや写真のような虎口から考えれば、物見台か何らかの曲輪跡と思われます。
展望広場からの眺望
城の真下を流れる国分川は天然の外濠の役目をしています。
広場隅の石碑
展望広場の片隅には、ゆうに3mはある立派な城址碑が建てられています。尚、城址碑は、小さいながら「詰」にも建てられています。
堀跡
四の段から腰曲輪に出た所の切岸下には、ほとんど埋まってしまって、浅くなっているが周囲に空堀が残っている。
岡豊城の遠景