土佐 姫野々城(津野町)

姫野々城、南尾根の連続堀切

津野氏18代の本城、後に長宗我部元親の三男親忠が入城、連続堀切が見事

読み方

ひめののじょう

別名

半山城(はやまじょう)

所在地

高知県高岡郡津野町姫野々(城山公園)
国道197号線から姫野々集落内の道路に入り、葉山小学校の前を南東に進んで行くと城山遊歩道への道標があります(薄くなっていて見落としやすいので要注意)。そこから道なりに山腹の白雲神社(登城口)まで車で行けます。駐車場(10台ほど駐車可)もあります。
葉山小学校:津野町姫野々503−1、電話0889-55-2020

所要時間

今回は、地元の方(葉山史談会)に説明を受けながらの登城でしたので、登城口(白雲神社)から二ノ段下まで25分ほど掛かりましたが、多分15分ほどだと思います。今回の所要時間は1時間10分。

形状

山城(標高193m)

現状・遺構等

【現状】 城山公園(山林)
【遺構等】 曲輪、石積み、堀切(連続堀切)、竪堀(畝状竪堀群)、横堀、遺構説明板、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2014/02/19

歴史等

姫野々城は、津野経高より親忠に至る津野氏18代の本城である。
伝承によれば、津野氏は伊予に流された藤原経高が土佐に入国したのに始まると伝えられる。経高の土佐入国は延喜13年(913)と元仁元年(1224)の両説があるが、当地区では後者の説をとっている。
姓を藤原から津野に改め、自らの力で土地を開拓し、領地の拡大をはかった。
室町時代には、高岡郡のほとんどを支配権に収め、半山(はやま、現津野町姫野々)に姫野々城を築いて拠点とし、津野庄を治めた。5千貫の所領を持つ「土佐戦国の七守護」の一人となり、京都の五山ともつながりを持つなど、津野文化も栄えた。
永正14年(1517)、「戸波恵良沼(へらえらぬま、現土佐市)の戦い」で、津野氏は一条氏と大平氏の挟み撃ちにあって敗戦、津野元実が戦死した。
その後、一時は、一条氏の支配下にあったが、天文16年(1547)に一条房基に攻められ、姫野々城は落城した。
そして、長宗我部元親の土佐統一後の元亀2年(1571)には、元親の三男・親忠を跡継ぎに迎えて領地を治め、津野庄の発展につとめたと伝えられる。
『「現地説明板」、「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」他参照』

土佐戦国の七守護
中村御所の一条氏を別格に、岡豊城主長宗我部氏、 安芸城主安芸氏、 香宗城主香宗我部氏、 蓮池城主大平氏、 姫野々城主津野氏吉良城主吉良氏、本山城主本山氏の七家が「土佐戦国の七守護」と称されていた。

現況・登城記・感想等

姫野々城は、規模は小さいながら、曲輪・切岸・堀切(連続堀切)・竪堀(畝状竪堀)等々の遺構が良好に残る見応えのある城跡です。
城の縄張りは、山頂部に詰ノ段を構え、その周囲下を螺旋状に二ノ段が囲んでいます。
その二ノ段の周囲斜面には多数の畝状竪堀群が並び、南・東・西に延びる尾根には、これでもかというほどの数の連続堀切を設けて、徹底した防御を考えた縄張りになっています。
その中で、南尾根の5本の大堀切と東本城へ延びる東尾根の5連続堀切は見応え満点です。
しかも、それらの堀切は、尾根の上の方から見下ろすと、連続しているのがはっきり見えます。写真に撮ってみても、これほど分かりやすい連続堀切を見たのは初めてで、少しばかり興奮してしまいました(*^_^*)。
また、地元の方(葉山史談会)のお蔭で、綺麗に整備されているのが嬉しいですね。(2015/02/19登城して)

余談
今回の登城では、山腹の白雲神社(登城口)が分からず、地元の方に尋ねたら、その方が神社まで車で先導してくれました。さらに、葉山史談会の会長と副会長まで呼んでくれて案内をして戴きました。地元の方の、姫野々城跡に対する熱意と愛着を感じました。お蔭で、城跡も維持・整備されているのですね。有難いことです。

ギャラリー

姫野々城縄張図(現地説明板より)
城の縄張りは、山頂部に詰ノ段を構え、その周囲下を螺旋状に二ノ段が囲んでいます。二ノ段の周囲斜面には多数の畝状竪堀群が並び、南・東・西に延びる尾根には、これでもかというほどの数の連続堀切を設けて、徹底した防御を考えた縄張りになっています。
00姫野々城縄張略図

【登城記】
今回は、地元の方(葉山史談会)の案内で登城することになりました。見どころを見落とすことなく廻れそうです。
登城口
山腹にある白雲神社まで車で登って行けます。登城口には縄張図付きの説明板が設置されています。また、登城道は、綺麗に整備されています。
01登城口

竪堀
しばらく登って行くと、右手に「竪堀」の案内板があり、その下には山裾まで延びる竪堀が。
03竪堀

堀切
竪堀のところから2分ほど登って行くと、正面奥に平場2が見えて来ます。その手前が、僅かに窪地になっていますが、縄張図にある最初の堀切でしょうか?
04堀切

平場2
平場2に登ると、平場についての説明板があり、「平場2は戦さの際に兵士が常駐する施設や武器倉庫があったものと思われます。」とありました。正面奥には土塁が見え、その手前が、いよいよ連続堀切の堀切1です。

05平場2

堀切1
堀切1は、埋められて、表面に小石が敷き詰められていたそうで、発掘すると、籠城した時に、兵士達の食事を作っていたのか、カマドの跡があったそうです。その籠城は、一条氏と戦った天文14年(1545)頃のようです。
07堀切1

堀切2
堀切2は発掘していないそうですが、堀切1と同様、カマド跡が出て来る可能性がありそうですね。
09堀切2

平場1
室町時代には、城主や重臣が乗馬登城したといわれ、平場1には厩舎等の存在が考えられるそうです。(平場2の説明板より)
13平場1

二重堀切
平場1の奥には、見事な連続堀切が見えます。見応え満点で、やたらと写真を撮ってしまいました。
21連続堀切

堀切3
この堀切3は、深さ4mほどある見事なものです。写真左が、先程の平場です。
23堀切3

堀切4
堀切4は、堀切3ほど深くはありませんが、それでも山側は3mはありそうです。
25堀切

再度、振り返って二重堀切を
あまりにも二重堀切がかっこいいので、堀切4を渡り切ったあと、振り返って、またまた写真に・・・(苦笑)。
南尾根二重堀切

竪堀
堀切は、勿論、竪堀となって山裾まで落ちて行ってます。
27竪堀

畝状竪堀
上の竪堀の先には、畝状竪堀が。畝状竪堀が、これほどはっきり見えるのは、この場所だけのようです。
29畝状竪堀

二ノ段下
そして、いよいよ二ノ段が見えてきます。階段上に見えるのが二ノ段です。写真左は横堀です。
30二ノ段を見上げる

横堀
31横堀

東尾根へ
二ノ段の下を右の方へ廻って行くと、またまた連続堀切が現れます。
IMG_4731

東尾根連続堀切
この東尾根の連続堀切は、二ノ段下の堀底道も含めると、何と5連続堀切ですw(*゚o゚*)w。この東尾根先端部は東本城です。勿論、入って行きます。

41東尾根連続堀切

堀切①
この堀切は、二ノ段下の堀底道の次の堀切です。南尾根の堀切3や堀切4と比べると浅く、1.5mほどですが、往時はもっと深かったことでしょう。
43堀切2

堀切②
3つ目の堀切です。こちらは2m弱です。
45堀切3

東本城へ
5つ目の堀切を越えて、東本城への坂を登って行きます。
東本城へ

東本城
西の丸とともに、主郭(詰の段、二ノ段)へ敵を寄せ付けないための出丸といったところですね。
47東本城

竪堀
東本城の側面は、下が見えないほどの急崖ですが、周囲には竪堀が設けられています。
51東本城竪堀

二ノ段の切岸
東本城を見たあとは、二ノ段へ向かいます。二ノ段の切岸は、とても登れそうにないほどの急斜面です。二ノ段へは、切岸の下の道を西の方へ廻って行きます。
53二ノ段切岸

二ノ段の西下の堀切
写真では大したことがないように見えますが、左上の二ノ段との高低差は5m以上ありそうです。
55西尾根堀切

二ノ段から西尾根の連続堀切を
雑木林になっていて分かり辛いですが、西尾根にも連続堀切が設けられ、先端部には西の丸がありますが、あまり整備がされていないようで入って行きませんでした。手前の堀切は、上写真の堀切(二ノ段西下の堀切)です。
57西尾根連続堀切

二ノ段西(防御的施設)
直径40~45cm前後の扁平な礎石が確認され、1間×2間の南北棟建物、もしくは庇構造を持つ櫓門的な建物があったと思われ、兵舎などの防御機能をそなえたところと推定される。また、土師質土器の杯、皿がほぼ完全な形で出土し、鉄製品、羽口も見られた。(以上説明板より)正面奥の高台は詰ノ段です。
61二ノ段西

石積み
二ノ段西から二ノ段北へ向かって行くと、まだまだ稚拙なものですが、主郭の切岸に石積みが確認できました。
71石積み

二ノ段北(生活空間)
この帯曲輪の幅は2.5~5m前後です。土師質土器、青磁、染付等の供膳具や、天目茶碗、卸し皿、鉢、甕、すり鉢等、貯蔵・調理具が出土しており、14~15世紀を中心とし16世紀代に至るまで恒常的な生活空間であったと思われる。(説明板より)
63二ノ段北

二ノ段南
一部から礎石が確認され、また、丸瓦片が出土し、瓦葺き建物の存在が明らかになり、城八幡・寺院等の施設があったと考えられる(説明板より)
二ノ段西と二ノ段南からは眺望が開け、眼下に姫野々の町並みが見えます。

65二ノ段南

二ノ段南から二ノ段西を
二ノ段西~二ノ段北~二ノ段南と廻ってきました。当写真で分かって戴けると思いますが、二ノ段は詰ノ段の周囲下を螺旋状にめぐっています。写真右の坂道は、詰ノ段への本来(往時)の坂道です。尚、現在は二ノ段南から階段が設けられています。
67二ノ段西と詰の段

詰ノ段
詰ノ段は180㎡ほどと狭く、周囲に土塁などもありません。掘立柱建物があったようです。また、北東部及び北斜面では染付・青磁など14世紀後半から16世紀前半の輸入陶磁器が出土されたそうです。
73詰ノ段

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント