久礼城、詰ノ段南東下斜面の連続堀切の一つ
山城としての全ての種類の遺構が良好に残る佐竹氏の山城
所在地
高知県高岡郡中土佐町久礼
【アクセス】
久礼中学校の背後の山が城跡で、中学校正門の東から背後(北側)を廻るように登って行きます。中学校校門脇の慰霊碑前の駐車場を借用しました。
久礼中学校:中土佐町久礼7753、電話0889-52-2811
所要時間
中学校校門脇の慰霊碑前の駐車場から詰ノ段まで18分、今回の所要時間は50分
形状
山城(標高105m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石積み、虎口、空堀(横堀、堀切、竪堀)、井戸、石碑、遺構案内板
満足度
★★★★☆
訪城日
2015/02/19
歴史等
久礼城主佐竹氏が久礼に来たのは、南北朝時代以降のことと伝えられ、細川氏配下の北朝方として活躍した。
戦国時代にかけて、久礼城を拠点として、久礼や上ノ加江などを支配下においた。
永正4年(1507)に管領・細川政元が殺害され、土佐の守護代の細川氏が上洛したのを契機に、土佐も戦国時代に突入した。この時、佐竹氏は「土佐戦国の七守護」の次の位にあたる「国侍」に格付けされた。
戦国時代の佐竹氏は繁義ではじまるが、繁義の息子・義之は、永正14年(1517)の「戸波恵良沼(へらえらぬま、現土佐市)の戦い」で大きな戦果をあげ、姫野々城主・津野元実を戦死に追い込んだ。
さらに、天文12年(1543)の一条氏と津野氏の合戦では津野氏の援軍として参戦したが、敗れて一条氏の軍門に下った。
その後、元亀2年(1571)に長宗我部氏の軍門に下り、長宗我部氏に仕えた。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」他参照』
現況・登城記・感想等
久礼城跡は、規模も比較的大きい上、曲輪、土塁、虎口、横堀、堀切(連続堀切)、竪堀(畝状竪堀)等の山城しての全ての種類の遺構が良好に残っているようです。
ただ、冬の夕方で時間が気になった上、藪のひどいところが多くて、見て廻れるところが限られ(強引に突入するべきだったかも?)、その多くを見逃さざるを得なかったのが残念です。
それでも、詰ノ段周囲の土塁や詰ノ段の南東斜面の連続堀切、詰の段南東下の二ノ段への虎口等々はなかなか見応えがあり、それなりに満足でした。
当城跡は、2時間近くかけて見て廻るべきでしょうね。
(2015/02/19登城して)
ギャラリー
登城口
久礼中学校の校門脇の駐車場に車を停め、中学校の東側から登ります。詰ノ段までのルートには、随所に写真手前のような案内板が設置されているので助かります。
山中へ
登城口から1~2分ほど登って行くと、左手に山中へ入って行く階段があります。
眺望
山中へ入り、中学校の背後(北側)を廻るように登ってきて振り返ってみると、久礼の町並みと久礼湾、そこに浮かぶ島々の光景が・・・。冬のPM4時前ですが、真っ青な空と海が鮮やかです。右下が久礼中学校で、左に見える燈台のような塔は水道施設のようです。
二ノ段北斜面の竪堀
山中へ入って10分ほど登って来ると、右手に竪堀が現れます。二ノ段北斜面に設けられた竪堀です。この奥には畝状竪堀があるようですが見逃してしまいました(/。ヽ)。
土塁
続いて土塁が・・・。この土塁は二ノ段北面の土塁です。
二ノ段
二ノ段は、多くがシダの藪になっていますが、周囲を高さ1~1.5mほどの土塁がめぐっているのが分かります。
詰ノ段東面の切岸
二ノ段の西側には詰ノ段があります。二ノ段との高低差は5~6mほどでしょうか。詰ノ段の東下周囲は腰曲輪のようになっていて、左右どちらから登って行けますが、案内板通りに左(南)へ向かいます。
虎口
左へ向かうと、すぐ左手に虎口が現れます。一部、石積みが残っていますが、往時はもっと使用されていたようです。
虎口下を
この虎口は、急坂になっており、そのまま竪堀となって山裾へ落ちて行っているようです。
横堀
詰ノ段の南東下は堀底道になっています。土塁の高さは1.5mほどです。
連続堀切
横堀(上写真)の土塁上から下を見下ろすと、そこにも堀切が確認できます。よく見ると、その向こうにも堀切が見え、連続堀切になっているようです。下へ下りて行くのは後にして、まずは詰ノ段へ向かいます。
詰ノ段南虎口を見上げる
横堀(堀底道)を歩いて行くと、右手に坂道があり、その上に詰ノ段南虎口が見えてきます。左側斜面(詰ノ段南斜面)を見ると、急崖になっていますが、特に竪堀などはないようです。
詰ノ段南虎口
虎口は平虎口で、その奥に城址碑が見えます。詰ノ段は標高103mです。
詰ノ段
詰ノ段は、周囲を高さ1~2mの土塁がめぐり、西奥には城八幡の佐竹神社が鎮座しています。
詰ノ段南側の土塁
詰の段の周囲をめぐる土塁は、南側は特に良好に残り、高さ2mほどあります。
詰ノ段北側の土塁
詰ノ段西側の土塁は高さ1mほどです。
詰ノ段西端部
詰ノ段の西奥の佐竹神社の裏は、一段高くなっています。ここでは、6間と2間の総柱の礎石が確認され、多聞的な倉庫があったと推測されているそうです。
詰ノ段西端部の土塁
倉庫があったという後ろの土塁は高さ2mほどあり、一部に石積みが確認されます。尚、ここから詰ノ段の西下の三ノ段へ下りようと思ったのですが、薮や雑木で、下がよく見えないほどの急崖でとても下りれそうにありませんでした。また、この下には、畝状竪堀があるらしいのですが、これまた、藪や雑木で確認できませんでした。
井戸跡
詰ノ段の北側に「天水井戸跡」がありましたが、雨水を溜める石組みの井戸でしょうか。その奥には、北虎口があります。
詰ノ段北虎口
詰ノ段には、南虎口と北虎口があったようです。ここには石積みが確認されます。
詰ノ段北虎口から下を見下ろす
詰ノ段北虎口から下を見下ろすと、石段があります。この下は、二ノ段から延びる細い曲輪になります。この下から左(西)へ向かって行くと、三ノ段方面ですが、藪がひどくてとても突入できる状態ではありませんでした。
詰ノ段北虎口への石段
虎口から下りて、北虎口へ登る石段の写真を撮りました。この石段は、なかなか良好に残っています。尚、このあと、詰ノ段の北斜面(切岸)の下を通って、藪の中を二ノ段へ戻りました。
詰ノ段南東下の連続堀切へ向かう
詰ノ段北虎口を下りると、かなりの藪です。西の方に三ノ段があるのですが、藪突入は諦めて、二ノ段へ戻り、先程、詰ノ段へ向かう時に見た虎口から下りて、連続堀切へ下りて行きます。ここも、結構な藪です・・・。
一つ目の堀切
先程、詰ノ段南東の横堀の土塁上から見えた堀切です。詰ノ段側の高さと傾斜は大変なもので、登るのは無理でしょうね。ここには、石積み(写真左手前)も確認できます。
堀切脇の石段
堀切の奥に入って行くと、石段が確認されました。帰京後、香美市教育委員会から送って戴いた「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」の現況図によると、南側の谷からこの堀切へ登って来る道があるようです。往時もあったのでしょうね
一段下の堀切
堀切の下には、さらにもう一つの堀切が設けられています。ここは、さらに薮になっていましたが、良好に残っているのが確認できました。規模も、一段上の堀切と同じくらいです。
尚、この堀切の下は、大変な急崖な上、さらに薮がひどかったので、下りて行くのは断念しました。
石積み
この堀切にも、一部、石積みが確認できました。こうして見て来ると、当城は、往時はかなり石積みが多用されていたように思います。尤も、当城跡は、佐竹氏時代のものというよりも、長宗我部氏の軍門に降った16世紀後半のもののようですから、それも納得ですね。