土佐 高知城(高知市)

二の丸虎口から眺める天守

山内一豊が築城、山内家16代の本拠

別名

大高坂城、高智山城

所在地

高知県高知市丸ノ内1丁目

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 高知公園(国指定史跡)
【遺構等】 天守、本丸御殿、納戸蔵、廊下門、詰門、東多聞、西多聞、黒鉄門、追手門、矢狭間土塀、内堀の一部、内郭の石垣が完存(以上現存)
石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2002/07/28
2007/05/03

歴史等

南北朝時代、現在の高知城の地は大高坂山と呼ばれ、大高坂氏の城があり南朝方として北朝方と戦ったが、興国元年(1340)落城した。
天正16年(1588)長宗我部元親が岡豊城(南国市)から本拠地を大高坂城へ移した。大高坂山は鏡川と江の口川に挟まれた要害の地であり、周囲は平野が開けており城下町を造成するのにも適していた。しかし、両川は氾濫を繰り返し造成工事は困難を極め、結局、大高坂城を放棄して桂浜のほとりの浦戸に城を構えて本拠とした。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で元親の嗣子・盛親(四男)は西方についたため領土を没収され、土佐は山内一豊に与えられた。一豊は入国早々は浦戸城を本拠としたが、城下町を造成するには手狭であったため大高坂城へ移転することにした。一豊も元親と同様、河川の氾濫には悩まされたものの、慶長8年(1603)には何とか築城を完了し移り住んだ。そして、名前も河内(こうち)城とした。しかし、その後も河川の氾濫に悩まされたことから「河」の字を嫌い、慶長15年(1610)高智(のちに高知)城と改めた。
山内一豊の入封以来、山内氏は16代に渡って土佐を代々領して明治に至った。その間、享保12年(1727)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失したが、宝暦3年(1753)までに創建当時の姿のまま再建された。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「高知城公式ホームページ」ほか参照』

現況・登城記・感想等

どうも高知城というと山内一豊や山内容堂のイメージがあり好きになれなかったのですが、美しい天守をはじめとして、城郭そのものは、いつまで見ていても飽きないほど素晴らしい。今回は、あまり城に興味の無い友人と一緒だったので、登城道を歩いて天守に登り、周りの眺望を見ただけで終わりにした。
土佐というと、やはり「坂本竜馬」であろう。この後、浦戸の海岸へ行き、竜馬を偲んで浦戸の浜を見ていた。今なお、綺麗な砂浜が広がっており、南国の海岸を楽しんだ。すぐ傍には長曽我部氏の浦戸城址らしき丘が見えるが、時間の関係もあり、残念ながらそれも登城することは諦めた。またいつか高知城ともども、じっくり見て回りたいと思う。
(2002/07/28登城して)


今回は、朝からじっくり廻ることが出来た。
5年ぶりの登城ですが、相変わらず(変わらないのは当然!?)大手登城口から仰ぎ見る「追手門と天守」や、鉄門の石段を登ったところから眺める「高石垣の上の多聞櫓と天守」の光景等々見応え満点の城でした。
尚、現存天守と現存追手門が揃っているのは、全国で3ヶ所だけで、しかも天守閣と追手門が1枚の写真に撮れるのは高知城だけとのことです。
(2007/05/03登城して)

ギャラリー

高知城縄張略図 (現地案内板より)
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高知城遠景
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内堀(奥が大手登城口)
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追手門(左奥上には天守閣が) ~クリックにて拡大画面に~
追手門は慶長年間(1596~1615)創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正門です。(現地説明板より)
尚、現存追手門と現存天守閣が揃っているのは、全国で3ヶ所だけ。そして天守と追手門が1枚の写真に撮れるのは高知城だけとのことです。
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「国宝高知城」? 戦前の石碑ですね
追手門前に「国宝高知城」と刻まれた石碑が立ち、その脇に、昭和9年に国宝指定、戦後昭和25年の「文化財保護法」により重要文化財指定に変更とあります。
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杉の段への石段 ~クリックにて拡大画面に~
追手門をくぐって入城し左へ向かうと杉ノ段へ登る石段があります。石段は攻めるのに上がりにくく、守るのに降り易い丁度よい足幅になっている。勿論、真っ直ぐ進むことはできません。
杉ノ段への石段

石樋(いしどい)
杉ノ段へ向かう石段脇の石垣に石樋が確認されます。高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城では特に排水に注意が払われている。石樋は、集められた排水が石垣にあたり土台にしみ込んで地盤が緩んでしまわないようにするため石垣の上部から突出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護しています。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものです。石樋は、本丸や三の丸などを含め現在16ケ所に確認されるが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られています。(現地説明板参照)
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杉ノ段から天守を望む
緩やかな石段を登り切ったところが杉ノ段です。ここから見上げる天守の姿もなかなかのものです。
杉ノ段は、かつて杉の巨木が沢山あったのでこの名がある。北の部分には塗師部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があったという。現在、杉ノ段には高知県出身の偉人などの記念碑や山内一豊の妻(千代)の銅像が立っています。写真右に修築中の三の丸石垣が見えます。

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井戸
城内には14の井戸があるが、その中でこの杉ノ段から二の丸へ上る道の南側にある深さ18mもある井戸は、最も水質が良かったので、毎日午前10時・正午・午後4時の3回この井戸水を汲み、藩主の住む二の丸御殿に運んだという。 
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三の丸の石垣(復元工事中)
三の丸の石垣は、構築以来400年の時を経て至る所に孕みや亀裂、脱落が生じ危険になったため、平成12年に調査を実施し、平成16年から4年間をかけて解体・調査・積み直しをすることになったそうで、当日は工事中でした。
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鉄門へ至る石段
杉ノ段から二の丸及び本丸を目指して進むと、ここにも直角に曲がる石段があります。
鉄門への石段

鉄門跡
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。ここを入ると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため、石垣は整然と築かれて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので鉄門と称された。(現地説明板より)
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鉄門の枡形
鉄門の内側には矢狭間塀がめぐらされていて、門内に侵入した敵を3方面から攻撃できるようになっていた。石段は18段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、下内は16段になっている。石段の中間(写真右の石段)から鉄門の二階に上れるように設計されていた。(現地説明板より)
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二の丸虎口から天守を望む ~クリックにて拡大画面に~
ここから眺める高知城の天守は最高のロケーションだと思います。いつまで見ていても飽きないです(^^)
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詰門
詰門は二の丸と本丸を結ぶ廊下になっており、侍の間、中老の間、家老の間があって、本丸を警固する武士達の詰所があった。また、入口と出口が筋違いになっていて、通り抜けができにくい「からくり門」です。
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二の丸廊下門脇から天守を望む ~クリックにて拡大画面に~
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二の丸から本丸を 
天守は独立式望楼型4層6階、1層目の屋根を腰庇として3層6階と数えられることもあります。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式です。創建時のものは享保12年(1727)に焼失し、延享4年(1747)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれています。また、本丸御殿・東西の多聞と廊下門・黒鉄門など本丸の全ての建物も完存するのは高知城だけです。左奥に天守、手前が詰門、その向こうが廊下門、右に一部見えるのが西多聞です。
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黒鉄門 
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梅ノ段(獅子ノ段)から本丸を望む
左から詰門、廊下門、西多聞、黒鉄門になります。
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御台所屋敷跡
御台所屋敷跡は発掘調査中のようでした。御台所屋敷は本丸西、梅ノ段(獅子ノ段)下に位置する丘陵部に造られた出丸状の曲輪で、東から西に下る地形が中ほどの斜面部で上段と下段に分かれています。上段部では、中世(鎌倉~戦国時代)の土器や銅銭、近世(江戸時代)の焼塩壺や瓦類が出土した。大高坂山は山内氏の築城以前にも、南北朝時代には大高坂松王丸らの居城として利用され、天正16年(1588)には長曽我部元親が居城をここに移した経緯があり、出土遺物はそれぞれの時代に該当するものと思われます。 
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【本丸内へ】
本丸御殿内
詰門から入り本丸御殿及び天守内へ入って行きます。本丸御殿は慶長8年(1603)に創建された。規模は小さいながら書院造の典型的様式です。享保12年(1727)に城下から出火した大火によって焼失したが、延享4年(1747)に再建工事が開始され、現存の御殿は寛延2年(1749)に再建されたものです。
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天守一階(築城風景模型)
高知城築城時の城下の風景の模型があり、その説明が聞ける。
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天守上から見下ろす
右上が詰門、手前が東多聞、中央やや左が廊下門、左端に西多聞の一部が見えます。

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コメント

しんしん(2010/07/31)

娘の転勤先で何度か高知城に行きましたが詰め門と言うのは見落としました。一豊は掛川城にも居たため外観が良く似ている感じがします。城のすぐ近くで1キロ位にわたって「日曜市」が開かれますが、そこでの「いも天」が美味しくて・・・「小夏」というオレンジは未だに「お取り寄せ」して高知の味を懐かしんでいます。

タクジロー(2010/08/03)

しんしんさま
コメント有難うございます。
再建された掛川城天守閣は、高知城を参考にしているようなので、確かに似ていますね。
日曜市、楽しそうで、いいですね。

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