土佐 岡豊城(南国市)

三の段の石垣と礎石

四国の覇者長宗我部氏累代の本拠

所在地

高知県南国市岡豊町八幡

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城址公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、堀、堀切、建物礎石、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/05/03

歴史等

鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住したのが、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。
戦国時代の土佐では、京都の戦火を避けて中村に下向した一条氏をはじめ、津野氏・大平氏・吉良氏・本山氏・長宗我部氏・山田氏・香宗我部氏・ 安芸氏の各豪族が対立・同盟を繰り返していた。特に、土佐中郡をめぐる争いは、本山氏と長宗我部氏の覇権争いであった。 本山氏は本山町を中心に本山城を築き、勢力を拡大していった。
永正4年(1507)に、土佐守護の細川政元が暗殺されると、均衡が崩れ、永正5年(1508)には、本山・山田・吉良・大平氏らが岡豊城 (おこうじょう)の長宗我部氏を攻め、元秀(兼序)を自殺に追い込んだ。
中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の嫡男国親は、一条氏の取り成しで、永正13年(1516)に旧領に復し岡豊城に入った。本山氏は、 南部まで進出し、土佐の中原を臨む朝倉城(高知市朝倉)を新たな本拠地とし、岡豊城の国親と対峙するようになった。
永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権を賭けた本山氏との激戦の最中、突如国親が病死してしまい、元親が、ただちに家督を相続し、 長宗我部家21代当主となった。その後、元親は本山氏との死闘に打ち勝って朝倉城を奪い、土佐中央部を手中に収めた。
勢いに乗った元親は、その他の有力国人を相次いで降伏させた後、さらに土佐一条氏の所領も併せ、天正3年(1575) 念願の土佐統一を果たした。
その後、天正10年(1582)には阿波を、同12年(1584)には讃岐の大部分も手中にした。伊予の平定には苦戦が続いたが、同13年 (1585)には、ほぼ四国を統一した。
しかし、同年、豊臣秀吉の侵攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城 (後の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。
しかし、天正19年(1591)浦戸に新城を築いて移住したため、 長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
『「高知県歴史民族資料館小冊子」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

岡豊城(おこうじょう)は、最高所に詰の段があり、その東側に二の段、西側に三の段・四の段が配置されている。
岡豊山の中腹のかつては曲輪があった場所に県立歴史民族資料館がある。ここには長宗我部氏関連の資料が結構展示されている。
岡豊城へは、この資料館の奥に登城道が整備されている。まず、二の段へ登る。二の段からの眺望はよく、ここから見える一帯は 「土佐のまほろば」と言われる地域で、比江廃寺・土佐国分寺・土佐国府跡などの史跡・文化財が多く残されたところであるとのことである。
二の段と詰の段との間には堀切があり、堀切の中に井戸が残っている。
詰の段には、建物の礎石と南面に土塁が残っている。
そして、この城の一番の見所は、この詰の段下にある三の段の土塁、石垣、建物の礎石群、虎口付近の石垣であろう。
四の段にある虎口も見応えがある。三の段から四の段にかけての風情は、往時を偲ばせてくれる。
また、四の段から腰曲輪に出た所の切岸には、ほとんど埋まってしまって、浅くなっているが周囲に空堀が残っている。
長宗我部氏の本拠の城のわりには、小規模な城郭である。尤も、四国平定前の城だから、こんなものかもしれないね。
(2007/05/03登城して)

ギャラリー

岡豊城城址公園絵図

岡豊城登城口
資料館の奥に登城道が整備されている。

二の段からの眺め
まず、二の段へ登る。二の段からの眺望はよく、ここから見える一帯は「土佐のまほろば」と言われる地域で、比江廃寺・土佐国分寺・ 土佐国府跡などの史跡・文化財が多く残されたところであるとのことである。

㊧二の段と詰の段の間の堀切と、 ㊨堀切にある井戸
㊧奥は二の段で、手前の堀切は二の段と詰の段の間に、 そして堀切のほぼ中央に井戸が掘られている。岩盤を3.6m掘り込んであり、雨水を溜める溜井として使われていたようだ。
 

㊧詰の段の建物礎石 ㊨詰の段にある石碑
詰の段には、 建物の礎石と南面に土塁が残っている。三の段への虎口が2ヶ所、小曲輪への虎口が1箇所あった。
 

㊧三の段の石垣と礎石 ㊨三の段と詰の段の間の虎口石段
この城の一番の見所は、詰の段下にある三の段の土塁、石垣、建物の礎石群、虎口付近の石垣であろう。
 

三の段を囲む土塁
三の段から四の段にかけての風情は、往時を偲ばせてくれる。

四の段の虎口
この四の段から、左側の厩曲輪跡等へ出る虎口と右側の詰の段下(三の段横) にある小曲輪への両虎口はなかなかよく残り、見応えがある。

㊧伝厩曲輪跡等方面への虎口、㊨詰の段下(三の段横) の小曲輪への虎口
 

㊧展望広場からの眺望、㊨広場隅の石碑 (この石碑は3m以上はあるのでは?)
 

堀跡
四の段から腰曲輪に出た所の切岸下には、ほとんど埋まってしまって、 浅くなっているが周囲に空堀が残っている。

岡豊城の遠景

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