山吹城への登城口。背後の高い山が山吹城址
石見銀山をめぐって大内・尼子・毛利氏による争奪戦が繰り広げられた城
所在地
島根県大田市大森町銀山
形状
山城(標高430m、比高200m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石垣、竪堀、空堀、移築城門、碑、説明板
満足度
?????
歴史等
山吹城は、鎌倉時代末期の延慶年間(1308~1311)に銀山が発見され、その守備のために大内弘幸によって築かれたと伝えられる。
その後、足利直冬の石見入りの際に、銀山の銀を採り尽くしてのちは、しばらく銀山の存在は忘れられていた。
戦国時代の中期、大内義興の代になると中国地方の諸勢力はほとんど大内氏の幕下に従っていたが、やがて出雲国に尼子経久が興ると、山陰の地はこの両勢力の争奪の地となった。
とりわけ石見国は、両勢力の接点である上、その頃に銀の新採鉱法が伝えられたため、再び銀山の価値が見直され、銀山の確保を主目的とする争奪戦がたびたび繰り返された。
尼子氏が最初に石見国に侵攻したのは大永元年(1521)といわれ、大内氏はこれに対して銀山の西に矢滝城を築き矢吹城と連携して銀山防衛に当たった。
そして、その後も、再三にわたって尼子氏と大内氏(滅亡後は毛利氏)との間で銀山の領有をめぐって争奪戦が繰り広げられた。
永禄3年(1560)には、毛利元就自ら大軍を率い、尼子方の名将本城常光の籠もる山吹城を攻めたが落とせなかった。しかし、その後、謀略で本城常光を誘降させ、毛利氏の守将が置かれた。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦での敗北後に毛利氏は防長二国へ減封となり、銀山周辺一帯は徳川幕府直轄領となり、大森代官所がおかれ、山吹城は廃城となった。
『日本城郭大系14より』
現況・登城記・感想等
大森代官所(現銀山資料館)を見た後、龍源寺間歩見学と山吹城の登城をするべく車で向かったら、途中(観光駐車場)でボランティアの人?に止められてしまった。
事前に調べたところでは、山吹城は龍源寺間歩近くの駐車場に停めて登って行けるようだったが、ここから先は、車は進入禁止なのだという。
しかも、ここから龍源寺間歩までは2.3kmあるのだという。これでは、登城口との往復だけでも1時間近く掛かってしまう(/。ヽ)。今日は、PM10:40までに京都駅まで行かなければならないので、とうてい時間が足りない(/。ヽ)。そういうわけで、「山吹城」は、泣く泣く諦め、龍源寺間歩の見学だけをすることになってしまった。
龍源寺間歩まで向かう途中に、山吹城への登城口があった。その遥か上の方に山吹城が見えたが・・・(/。ヽ)。先程の観光駐車場から、ここまで歩いてきてから登城するのでは、余程、時間に余裕がないと登ることはできないだろうし、今後も、登城は多分無理だろう。おまけに、そのショック(ちょっと大袈裟?)で、龍源寺間歩へ行く途中の西本寺に建つという山吹城の移築城門まで見忘れてしまったのだ(/。ヽ)。
そういう訳で、登城は出来なかったが、心ならずも、遠景だけの写真をサイトに載せることになった(/。ヽ)。
(2012/05/21訪れて)
(おまけ)
ところで、龍源寺間歩までの2.3kmは結構遠かった。「こんなに歩かされるんじゃ、それほど足の達者でない人には無理なのでは?」、「これじゃあ、観光客も少ないわけだ。折角の世界遺産も町興しにならないのでは?」、「そういえば、外人観光客を全く見ていないような・・・?」等々・・・。余計な心配を(笑)。
ギャラリー
ボランティア?に止められてしまった駐車場から山吹城を望む
左側背後の山が山吹城。