美濃 加納城(岐阜市)

関ヶ原合戦後、家康が岐阜城を廃し築城を命じた城

所在地

岐阜県岐阜市加納町丸の内(加納公園)

形状

平城

現状・遺構

現状:加納公園他
遺構等:曲輪、土塁、石垣、堀、説明板

満足度(10点満点)

5点

訪城日

2008/05/05

歴史等

加納城は、文安2年(1445)に斎藤利長が築城し、その後天文の頃(1532~54)には廃城となっていた。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直後、徳川家康は、岐阜城を廃し、 加納城築城を命じた。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大薮曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」 という景観であった。石垣などは岐阜城から運んだと伝えられている。
初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、また亀姫の粧田として2千石を給された。
奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と代々の城主は譜代大名が勤め、最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年(1869) 加納城第16代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。
明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められたが、今でも、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、 三の丸北東部分に当時を偲ぶことができる。
昭和58年(1983)に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、 江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋れているのが確認された。また、本丸の堀の底には「堀障子」 と呼ばれる畝状の仕切りがあったことも分かった。
『現地説明板2箇所他より』

現況・登城記・感想等

加納城本丸跡は公園として綺麗に整備され市民の憩いの場となっている。
本丸はかなり良好に残っており、その一辺200mはあろうかという非常に広い本丸周囲を土塁が囲み、 その外側を石垣が巡る姿は実に見応えがある。
中でも、出丸のように突き出た部分から臆病門に掛けて続く北西部の石垣は圧巻である。
まず、本丸内に入ると、その広さに驚かされる。そして、その周囲を巡る高い土塁を見つけ嬉しくなってくる。 その高くて広い土塁上を散策することも出来、その上から眺めると改めて本丸の広さを実感する。
土塁は各隅が広くなっており、南東部土塁が天守台跡である。その外側下に算木積みの石垣のほんの一部だけが残っているのが物悲しい。
加納城址は岐阜市中心街に近い住宅街のど真ん中にあるにも関わらず、よくこれだけの遺構が残っていてくれたものだと思う。
(2008/05/05登城して)

ギャラリー

加納城の図(現地説明板より)  ~クリックにて拡大画面に~

本丸
本丸内に入ると、その広さに驚かされる。そして、その周囲を巡る高い土塁を見つけ嬉しくなってくる。

本丸土塁上
土塁の上を散策することも出来る。各隅は広くなっており、櫓が建っていたようだ。 右写真は本丸南東部土塁の天守台。
 

本丸北西部の石垣
本丸周囲は土塁が囲み、その外側を石垣が巡る姿は実に見応えがある。中でも、 出丸のように突き出た部分から臆病門に掛けて続く北西部の石垣は圧巻である。

本丸南東部の石垣
この南東部土塁は他より少し高く、石垣の姿もなかなかのものだが、明治維新の時の取り壊しのためか、天守台 (写真右奥)のあたりは石垣があまり残っていないのが淋しい。

天守台石垣
天守台は南東部隅にある。 その角下に算木積みの石垣のほんの一部だけが残っているのが何となく物悲しいような。

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