ペルゲ遺跡(Perge)

聖パウロも滞在したローマ帝国時代に栄えた植民地パンフィリアの大城塞都市

所在地

トルコ共和国アンタルヤ県ペルゲ(Perge)

歴史等

ペルゲの町の起源は、紀元前1200年頃のトロイ戦争後に移住してきたギリシャ人により建設されたとも言われるが、 現在のところはっきりとは分からないという。
紀元前546年にペルシア人によって支配されたが、 約200年後の紀元前333年にはアレキサンダー大王によってマケドニアの領土として支配された。
アレキサンダーの死後シリア、小アジアを支配したコマゲーネ王朝は、小アジア支配の重要な都市としてペルゲを位置づけ、強固な城壁で固めた。
紀元前188年にはローマ帝国の支配下となり、最盛期を迎えた。同時に、小アジアにおける原始キリスト教の重要拠点でもあった。 パウロもキリスト教布教のためにこの町に滞在したと聖書に記されている。現在の遺跡のほとんどはこの時代に建てられたものである。
ローマ帝国が滅亡した後も、ぺルガは定住地であり続けたが、セルチュク朝時代に廃墟となった。
『地球の歩き方・イスタンブールとトルコの大地(ダイアモンド社刊)他参照』

現況・登城記・感想等

ペルゲはアクロポリスの丘の南麓に街区の遺跡が広がっている。元々は、山(丘)の上にあったが、 時代が落ち着いてくると共に山麓へと降りてきたようだ。丘の上には、今も城壁が残り、アルテミウス神殿と伝えられる建造物跡等があるようだ。
遺跡見学は、まず競馬場(競技場)からスタート。かなり崩れてはいるが、観客席下のアーチは良く残り、子供の頃に見た映画「ベンハー」 を思い出す。
南西方向には劇場も見えるが、かなり崩れやすく危険なため入場は出来ないとのことである。
ローマ時代の門「シティー門」を潜ると、円筒のヘレニズムの門が見えて来る。その門の右側や後方を眺めると無数の円柱が見え、 当時の繁栄振りが窺がえる。
左側には立派な浴場跡があり、往時の様子が窺がえるような気がする。
ヘレニズム門を潜ると、アクロポリスに向かってほぼ一直線に道路が走っている。道路の両側には石柱が立ち並び、中央には山麓の「愛の泉」 から流れていた水路が走っている。大理石で敷きつめられた道路には轍が残っているのが往時を偲ばせてくれる。
アクロポリスの丘の上を見ると、石垣がよく見える。残念ながら、バスツアーの身の上の私には登って行く時間がなかった。
(2008/03/16訪れて)

ギャラリー

競馬場(競技場)             ~クリックにて拡大画面に~
234m×34mと、非常に細長い楕円形の競馬場(競技場)であり、競馬とは言っても一騎(車輪付き) だけが走るそうである。収容人員は12000人とのことである。

劇場(競馬場内から撮影)        ~クリックにて拡大画面に~
南西方向には劇場も見えるが、かなり崩れやすく危険なため入場は出来ないとのことである。

観覧席裏側のアーチ
観客席下のアーチは良好に残り、子供の頃に見た映画「ベンハー」を思い出す。

シティーゲート
ローマ時代のもので、この門を潜り街区へと入って行く。

ヘレニズムの門
シティーゲートを潜ると、円筒のヘレニズムの門が見えて来る。 その門の右側や後方を眺めると無数の円柱が見え、当時の繁栄振りが窺がえる。

浴場建物の壁
左側には立派な浴場跡があり、往時の様子が窺がえるような気がする。

ローマ式浴場
当然、床下から熱する方式である。このような浴室が幾つか繋がり、 部屋ごとに高温から低温に分けて設定されているとのことである。
 

列柱道路
ヘレニズム門を潜ると、アクロポリスに向かってほぼ一直線に道路が走っている。 道路の両側には石柱が立ち並び、中央には山麓の「愛の泉」から流れていた水路が走っている。 大理石で敷きつめられた道路には轍が残っているのが往時を偲ばせてくれる。

アクロポリスの丘            ~クリックにて拡大画面に~
アクロポリスの丘の上を見ると、石垣がよく見える。

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