山頂部最東端の石垣
信長が整備した下街道の監視の役割を担う城か
所在地
滋賀県彦根市稲里町、清崎町、賀田山町
【行き方】
県道205号「賀田山町信号」から200m程西進して宇曽川に架かる「新大山橋」を渡る。渡ってすぐを右折し、
宇曽川沿いに200m程北上し、最初の路地を左折する。200m程西進すると左手に登城口があり、専用駐車場と説明板がある。
形状
山城(比高約50m)
現状・遺構等
現状:城址公園
遺構等:曲輪、石垣、土塁、虎口、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/02/07
歴史等
山崎山城は、在地土豪の山崎氏の居城と伝えられる。山崎氏は、六角氏の庶流で山崎山周辺の勢力を維持していた。
後に、浅井氏に付いたが、織田信長の近江侵攻後は、これに従っている。
織豊政権下でも存続し、摂津三田に移封されたが、近世まで至った。
城は、安土城の築城後に信長が整備した下街道(現在の県道2号線、通称朝鮮人街道)を見下ろす丘陵地にある。信長の政策の下で、安土・
佐和山の中継点、且つ下街道の監視の役割を担っていたと考えられる。
『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
昨夜来からの大雪と深酒による体調を考慮して、朝一番は、公園として整備されたと聞いた山崎山城へ登城することにした。
20cm近くの積雪であったが、登り口から道が綺麗に整備されているので、難なく頂上の削平地まで登ることができた。
ところが、登ってビックリ! 削平地があるだけで城址とは思えないような光景。
本物とは思えないような、僅かな石垣等はあるものの、縄張は勿論、遺構などもどうなっているのかよく分からない。
東面や北面で検出された石垣も大半が埋められてしまったそうだ。
城址公園というより、単に眺望の良い公園といった感じだ。
積雪で埋もれていたり、また雪で滑るので危険なため、端の方へは行けず、廻りきれなかったこともあるかもしれないが、
公園の整備の仕方に大きな問題があるようだ。
(2010/02/07登城して)
ギャラリー
平面図(現地説明板より)
登城口
昨夜からの大雪で、およそ20cmの積雪も、道が整備されているようだから大丈夫だろう。
山頂部へ
登城口から登ること約8分で、山頂部最東端の石垣が見えてくる。
最東端部の石垣
最初に、この石垣を見た時、まさか遺構とは思わなかった(苦笑)
山頂部の曲輪を
山頂部は、ただの平坦地。これを見て、誰も城址だとは思わないだろう!?
山頂部東端から北東方面の眺望
城址は兎も角、山頂からの眺望は素晴らしい。伊吹山もよく見える。勿論、
彦根城や佐和山城もよく見えるはずだが、目の悪い私にはよく分からなかった(汗)
私には、とても下街道の監視の役目は務まらず、当時なら信長に打ち首にされそうだ(笑)
西端の櫓跡
この位置は尾根最高部の一郭にあたり、
敵の侵入を防ぐため尾根を防ぐように構築された約12m四方のコの字状をした石垣が2・3段残されています。この遺構は、
枡のような四角い形(枡形)をしていたことから、築城時には櫓があったのではないかと考えられます。(説明板より)
櫓跡から南西方向を
南西方向には観音寺城と安土城が見える。多分、写真の山が、それだと思うが・・・?
西尾根は
山崎山城は、南北は急崖に、東は宇曽川へ向かって急激に落ち込んでおり、尾根続きは西尾根だけである。
櫓台のすぐ下は、尾根の両側に竪堀が設けられて堀切のようになっている。その先にも、何らかの遺構はあるのだろうけど、
給水タンクが建設されてしまっている。
竪堀
約2mと大変浅い竪堀であるが、説明板によると、最高部の第一郭の石垣との高低差は約4mあるので、
少ない労力で防衛力を高められるよう、この山の地形特性を最大に生かしているんだそうです。
西尾根から櫓跡を
櫓台のこちら側からも石垣が検出されたそうだが、大半が埋め戻されたようで往時の様子が分からないが、
少なくとも、写真のように土橋を渡って櫓台を直登することはなかっただろう(笑)