近江 大溝城(高島市)

安土を中心とする琵琶湖城郭ネットワークの一つ、織田信長の甥・信澄の城

所在地

滋賀県高島市勝野

形状

水城(湖城)

現状・遺構

遺構等:天守台石垣、説明板

満足度(10点満点)

4点

訪城日

2007/12/22

歴史等

琵琶湖には、漁労や水運に従事しながら、ときには刀を持って戦う「湖族」と呼ばれる水辺の民がいた。信長はその本拠地・堅田を襲撃し、 支配下に治めていくと同時に、安土城を中心とする新たなネットワークを創り出していった。
その拠点となったのが、坂本城(明智光秀)、 長浜城 (羽柴秀吉)、大溝城(織田信澄)の各城であった。いずれも琵琶湖の水辺に築かれた水城で、それらを結ぶ交通ネットワークは、 即ち軍事ネットワークでもあった。
大溝城は洞海(乙女ケ池)と呼ばれる内湖と琵琶湖の間に伸びる砂州の北西端に位置している。砂州上には西近江路が通っており、 湖路と陸路が交わる交通の要衝に城は立地している。縄張は明智光秀によるものと伝承されている。
その頃、高島郡一円を委ねられていた新庄城主・磯野員昌(かずまさ)が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578) 2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄にあてがい大溝城主とした。
城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起こると、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。 信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、 信澄は自害して果てた。
大溝城は、天正13年(1585)に解体され、甲賀の水口岡山城に移築されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和元年 (1619)伊勢上野(三重県河芸町)から入部した分部(わけべ)氏に引き継がれ、整備されて湖西地区の中核的存在として、 豊かな歴史と文化を育んできた。
『「別冊歴史読本・織田信長天下布武への道(新人物往来社刊)」、「高島歴史探訪ガイドマップ1・高島の城と城下町 (高島歴史民俗資料館内資料)」、「大溝城本丸跡説明板」参照』

現況・登城記・感想等

大溝城(おおみぞじょう)天守台石垣は、公立高島総合病院のすぐ東側にあるので分かりやすい。病院の駐車場を拝借して、 乙女ケ池に架かる八つ橋を渡って行くと本丸天守台石垣へと出る。
遺構はあまり残っておらず、わずかに本丸天守台の野面積みの石垣が残るだけであるが、一つ一つの石が大きいのに驚かされる。
天守台上に登って周りを見下ろすと、この城が琵琶湖に繋がる内湖(乙女ケ池)に浮かぶ湖城であったのが窺い知れ、往時を偲ばせてくれる。
(2007/12/22登城して)

ギャラリー

乙女ケ池(洞海)
乙女ケ池に架かる八つ橋を渡って行くと本丸天守台石垣へと出る。大溝城は、琵琶湖と乙女ケ池(洞海) と呼ばれる内湖を巧みに取り込んで築いた水城であるのがよく分かる。

天守台石垣を東側から眺める(最初にこの光景へと出会う)

天守台石垣を西側から眺める
手前が、かつて内湖を利用した水堀であったのが容易に分かる。

天守台石垣(㊧南面、 ㊨東面)
野面積みの石垣が残るだけであるが、一つ一つの石が大きいのに驚かされる。
 

天守台上(ほとんど整備されていない?)

天守台上から
天守台上に登って周りを見下ろすと、この城が琵琶湖に繋がる内湖(乙女ケ池) に浮かぶ湖城であったのが窺い知れ、往時を偲ばせてくれる。

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