伊勢 采女城(四日市市)

2の郭から空堀越しに1の郭方面を

藤原氏を祖とする後藤氏の城、郭間の空堀は圧巻

所在地

三重県四日市市釆女町字北山

形状

山城

現状・遺構

現状:公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、堀切、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2007/11/24

歴史等

藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、 後藤左衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。
後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引き連れて采女の地に移住、采女山(北山) に城郭を築いた。
以来、300有余年、連綿と治政して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。
関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)遂に落城した。
言い伝えによれば、城主・藤勝は討死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追ったという。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

故郷四日市にこれだけ素晴らしい山城が残っているとは、驚いたと同時に嬉しかった。
非常に綺麗に、しかも遺構等に余計な手を入れずに残されている。
今回は、夕方になって薄暗くなってからの登城で、1の郭から9の郭のうち、1、2、3、5の郭だけの登城になってしまったが、 郭間の深くて広い堀切やそこに架かる土橋、また郭の周りに巡る土塁は本当に見応えがあった。
中でも、5の郭と1の郭間、1の郭と2の郭間、2の郭と3の郭間の空堀と土橋には感激した。
いつか、再登城し、1から9の郭を全部廻りたいと思う(9の郭は整備されていないのかな?)。
(2007/11/24登城して)

ギャラリー

縄張図(上が北)       ~クリックにて拡大画面に~
采女城 縄張図

登城口
内部川に沿った道路端に石碑が建ち、遊歩道の登城口(左奥)になっている。
采女城 登城口

5の郭への喰い違い虎口(㊧外側から、㊨5の郭内から)
采女城 5郭への虎口  采女城 5郭の虎口

5の郭から1の郭間の堀切と土橋
両側は深い堀切になっており、土橋の上に板橋が置かれている。奥は1の郭への虎口。
采女城 5郭と1郭間の土橋

1の郭の井戸と土塁
1の郭は周りを土塁で囲まれており、山城としては相当な広さである。
大きな井戸が残り、説明板が設置されている。

采女城 1の郭

1の郭土塁上から、空堀越しに2の郭を
最初にこの大規模な空堀を見た時には感激した。
左側に土橋があり、2の郭奥には土塁があり、左側の高くて広い土塁上は櫓跡推定地である。

1の郭と2の郭間の空堀(この空堀は相当な広さがある)

2の郭から空堀越しに1の郭方面を
土橋の左側空堀は上写真の空堀、土橋右の空堀は下の方まで続いている。

櫓跡推定地
2の郭北側の土塁上が櫓跡推定地とされ、他の部分よりやや高く、広くなっている。

2の郭土塁(櫓跡推定地)上から
2の郭と3の郭間の空堀を撮ったもの

2の郭と3の郭間の空堀
この空堀もかなりの規模である。

3の郭
3の郭も相当な広さ(1の郭に次ぐ)であり、周りには土塁が

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント