写真奥に堀切と架橋、そしてその両側に石垣、手前両側は堀
蒲生氏郷誕生の城
別名
中野城
所在地
滋賀県蒲生郡日野町西大路
形状
平城
現状・遺構等
現状:城跡公園、涼橋神社、稲荷神社
遺構等:曲輪、石垣、堀、蒲生氏郷産湯の井戸、石碑、石柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/11/19
歴史等
地名中野の地に築城されたので地元では中野城と称したが歴史的には日野城という。
鎌倉時代初期から約400年間における日野の領主蒲生家6万石の最後の本城であった。
東方音羽の城山に蒲生家の音羽城があった文亀大永の頃(1501~1523)に、この地に砦が造られたのが始めであり、その後、
蒲生定秀が当主の頃の天文2年(1533)から3年にかけて本格的に築城され、
同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りをして日野の城下町を造った。
定秀の孫に当る氏郷は、この城で弘治2年(1556)に生まれた。氏郷26歳の天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が憤死した時、
安土城にいた信長の妻妾一族をこの城へ迎え入れ、明智光秀の軍を迎え撃とうとしたことは有名である。
天正12年(1584)豊臣秀吉の命によって氏郷が伊勢松ケ島へ国替えとなり、52年間にわたる中野城と城下町繁栄の歴史は幕を閉じた。
その後、氏郷は松坂城12万石城主から天正18年
(1590)会津黒川城42万石に移封され、
黒川を若松と改め92万7千石の大名となったが、文禄4年(1595)40歳の若さで京都邸にて病没した。
徳川時代に入って天和6年(1620)市橋長政が中野城址へ仁正寺藩1万8千石の陣屋を構え、明治維新までの藩主となった。
昭和40年日野川ダムの造成によって土塁などは壊されたが、本丸と堀の一部が残され、
現在では涼橋神社と稲荷神社の石垣にその名残りを留めている。地名を古城という。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
蒲生氏郷生誕の城ということで、楽しみに登城した。尤も、
現在残る遺構の多くは江戸時代に仁正寺藩陣屋を築く時に改修されたものが多いのであろうが・・・。
神社の鬱蒼とした森の外側に結構大規模な掘跡が残っている。また、「蒲生氏郷公産湯の井戸」を見付け嬉しくなってくる。
日野川沿いの空地(駐車場?)に駐車して、城域に入って行くと、いきなり両側が石垣になっており、その上に橋が架かっていて、
この道が堀切道であることが分かる。石垣の上両側には、それぞれ涼橋神社と稲荷神社が建っている。
そして、堀切道を抜けると堀がある。この堀もなかなか立派なものである。堀の横から見る「堀切と架橋、そしてその両側の石垣の光景」
がなかなか良い。
ダム建設にあたり、かなり壊されたようではあるが、往時の雰囲気が充分残った城址であった。
(2007/11/19登城して)
ギャラリー
神社外側の堀跡
蒲生氏郷公産湯の井戸
堀切
城域は鬱蒼として昼間でも薄暗い。入って行くと、
いきなり両側が石垣になっており、その上に橋が架かっていて、この道が堀切道であることが分かる。
本丸の石垣
石垣の上両側には、それぞれ涼橋神社と稲荷神社が建っている。写真は涼橋神社下の石垣。
石垣上の涼橋神社
そして、堀切上の橋を渡ると稲荷神社(奥)が
水堀
堀切道を抜けると堀がある。この堀もなかなか立派なもので、片方が水堀、片方は空堀になっているが、
往時は両方共水堀だったのでは?
空堀