芳賀氏300年の居城、今も往時の遺構をよく残す
所在地
栃木県宇都宮市竹下町380-1飛山城史跡公園:TEL028-667-9400
形状
崖端城(平山城)
現状・遺構
現状:飛山城史跡公園
遺構等:曲輪、土塁、櫓台、馬出、空堀、復元建物、復元木橋、石碑、説明板等々
満足度(10点満点)
8点
訪城日
2007/01/15
歴史等
芳賀氏は、益子氏(紀氏)とともに、「紀清両党」と呼ばれ、宇都宮氏を支えた武士団である。飛山城(とびやまじょう)は、
鎌倉時代末期の永仁年間(13世紀末)に芳賀高俊が主家の宇都宮城に近い当地に築城したと伝えられている。
芳賀氏は、天武天皇の子孫である清原氏の一族で、代々、芳賀郡一帯を治めていた豪族で、この飛山を居城としてからは、姓を先祖の「清原」
に改めたと云われている。
この飛山城は、高俊以後、慶長2年(1597)豊臣秀吉の命により廃城となるまでの300年にわたり清原氏の居城であったと云われるが、
その変遷については定かでない。
『現地説明板より』
【縄張】 ~クリックにて拡大画面に~
城の規模は、約14haと広大で、東と南側を二重の堀で、西と北側を鬼怒川によって守られている。
城内は中央の4号堀により大きく北と南に分かれる。
北側はさらに3本の堀により厳重に守られ、2号堀に囲まれた部分が、主郭と考えられる。
南側は小規模な溝により、東と西に分けられ、その東側は倉庫や兵士の詰所があった場所と考えられる。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
飛山城への登城口は東側正面になる。6号堀に架かる橋を渡ると、正面に馬出が復元され、その奥には5号堀がある。
5号堀に架かる土橋を渡り、城門を入ると城内である。
城内へ入ると、北と南に分ける4号堀が西の方へと伸びている。4号堀に沿って歩いて行くと、中央辺りで、堀がクランク状に曲がり、
そこから更に西へと伸びている。西側は、天然の要害鬼怒川に面し断崖(比高差約25m)となり、
川の向こうには赤城山や男体山を望むことが出来る。
4号堀の北側は、2号堀により、東西に分けられ、その西側も2号堀により南北に分けられ、南側の主郭跡には掘立柱建物が復元されている。
主郭を囲む2号堀は復元されているが、1号堀と3号堀は復元せず、廃城時のままにされている。
また、北側も鬼怒川に面し断崖となり、川の向こうには那須連峰を望むことが出来る。
飛山城は自然の地形を巧みに利用し、空堀や土塁を巡らした要害堅固な崖端城であることがよく窺がえた。また、実に広大で、
しかも遺構がよく残り、また、国指定史跡だけあって復元整備も非常に行き届いた城跡であった。
(2008/01/15登城して)
ギャラリー
6号堀(手前土塁は櫓台)
馬出
6号堀に架かる橋を渡ると、正面に馬出が復元されている。
㊧5号堀と㊨5号堀の土橋
馬出の奥には5号堀がある。5号堀に架かる土橋を渡り、城門を入ると城内である。
4号堀(東側)
城内へ入ると、北と南に分ける4号堀が西の方へと伸びている。
4号堀のクランク状に曲がった部分
中央辺りで、堀がクランク状に曲がっている。
4号堀中央の土橋
4号堀(西側)
4号堀は中央から、また西の方へと真っ直ぐ伸びている。
4号堀(一番西端)
西側の眺望
西側は、天然の要害鬼怒川に面し断崖(比高差約25m)となり、
川の向こうには赤城山や男体山を望むことが出来る。奥のやや左の丸い山が男体山。
北から南へ伸びる2号堀
4号堀の北側は、2号堀により、東西に分けられている。
東から西に向かって伸びる2号堀(東側)
西側も2号堀により南北に分けられている。
東から西に向かって伸びる2号堀(西側)
㊧1号堀、 ㊨3号堀
主郭を囲む2号堀は復元されているが、1号堀と3号堀は復元せず、廃城時のままにされている。
主郭に復元された掘立柱建物
北側の眺望
北側も鬼怒川に面し断崖となり、川の向こうには那須連峰を望むことが出来る。