稲荷神社への参詣道入口にたつ石碑
児玉党後裔の本庄氏により築城、家康の関東入封に伴い小笠原氏が居城
所在地
埼玉県本庄市本庄3-5(本庄市役所・城山稲荷神社一帯)
本庄市役所:本庄5-3、TEL0495-25-1111
城山稲荷神社:本庄3-5
形状
平山城(崖端城)
現状・遺構等
現状:城山稲荷神社、本庄市役所、城下公園、宅地他
遺構等;土塁、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/01/08
歴史等
本庄城は、弘治2年(1556)、児玉党の後裔本庄宮内小輔実忠により築城されたと伝えられる。
本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服し、
新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端・字天神林に本庄城を築いた。築城を機に本庄村も誕生した。
実忠の子隼人正の代に至って、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条氏が敗れると、
本庄城も秀吉勢前田利家の前に戦うこともなく開城した。
徳川家康の関東入封に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石で新城主となったが、慶長17年(1612)
その嗣子信之の代に古河城へ移封され、
本庄城は廃された。
『城山稲荷神社内「本庄城跡説明板」「城山稲荷神社創建450年記念碑」より』
現況・登城記・感想等
本庄城址の大半は市役所・城山稲荷神社・城下公園となって、あまり面影はないが、
市役所と稲荷神社の間にある個人宅の裏の空地に土塁が残っている。個人所有地らしく、鉄条網等で塞がれて中に入って行くことは出来ない。
また、市役所や稲荷神社の裏の川は断崖になっており、河岸段丘上に築かれた崖端城であった名残りがある。
石碑と説明板は、稲荷神社への参詣道入口に設置されている。
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
土塁(稲荷神社参道から撮影)
市役所と稲荷神社の間にある個人宅の裏の空地に土塁が残っている。個人所有地らしく、鉄条網等で塞がれて中に入って行くことは出来ない。
土塁(市役所側から撮影)
稲荷神社境内に聳えるケヤキ
このケヤキは目通り6.3m、根回り13.3m、枝張りは30m四方に及ぶ。樹齢約400年と推定される。
弘治2年(1556)本庄実忠により本庄城築城のとき献木されたと伝えられている。
㊧本庄市役所裏の河岸、㊨稲荷神社裏の河岸
市役所や稲荷神社の裏の川は断崖になっており、河岸段丘上に築かれた崖端城であった名残りがある。