南ノ郭への登城口
山内上杉氏の居城、後に北条氏邦により落城し鉢形北条の属城となる
別名
八幡山城
所在地
埼玉県本庄市児玉町八幡山446
城址公園、児玉中学、児玉高校の辺り一帯
児玉高校:児玉町八幡山410、TEL0495-72-1591
形状
平城
現状・遺構等
現状:城址公園、児玉高校、児玉中学校
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/01/08
歴史等
雉岡城(きじがおかじょう)は、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので、山内上杉氏は上野平井城に移り、
当城には家臣の夏目豊後守定基を置いて守備させた。
永禄年間(1558~70)には北条氏邦によって攻略され鉢形北条の属城となったが、
天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原攻めの際、前田利家によって攻囲され落城した。
同年8月徳川家康の関東入国後、松平家清が1万石の格式を受けて領主となり居城としたが、慶長6年(1601)三河吉田城に転封されるや廃城となった。
現在、二の郭は児玉中学、三の郭は児玉高校の敷地となっており、本郭の一部は公園として残されている。本郭は他の郭より一段と高く、
中央に幅10mを越える空堀があり、南側は断崖をなしている。
『現地説明板より』
説明板には、「二の郭は児玉中学校、本郭の一部は公園として残されている」となっているが、実際に廻って縄張図と照らし合わせて見ると、
「本郭跡と二の郭の一部が児玉中学校になっており、公園は南の郭跡」である。
雉岡城縄張と現状の図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
現況・登城記・感想等
雉岡城の最大の見所は何といっても、規模の大きい「土塁」と「水堀」「空堀」であろう。
どちらも江戸城並みの規模と言っても大袈裟ではないであろう。
土塁上を散策し、周りを見渡すと、土塁や堀は勿論のこと、城郭自体の大きさにも改めて気付き、感激する。
これだけの城を、江戸幕府開府後、わずかの年月で廃してしまうとは本当に惜しい気がするのは自分だけであろうか?
尚、高校や中学校の入口あたりにも土塁が残っているようであったが、戦前までは大半が残っていたようで、戦後、
大部分が破壊されてしまったとのことである。戦前の姿を一度見てみたかった。本当に残念である。
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
南の郭
公園の門を入った所が南の郭。ここにも城址碑が建つ。
南の郭(公園)東側土塁
南の郭(公園)南側土塁
城の郭を区分する水堀
手前の堀は、右側の三の郭(東の郭)と左側の南の郭を分ける水堀、奥の堀は、右側の三の郭(東の郭)
と左奥の本郭を分ける水堀。本郭は一段高くなっており、今は児玉中学校の校舎が建ち、三の郭には児玉高校の校舎が建っている。
二の郭・南の郭間の空堀
この空堀は、深さも幅もかなりのものがあり、急斜面になっている。
南西隅の土塁
南西隅の土塁は一段高くなっている。往時は櫓でも建っていたのであろうか?今は、
騎馬武者の小さな石像が建っていた。武者の腕が無くなっていたのが可哀想!?
馬出跡に建つ塙記念館
児玉町は塙保己一の出身地でもある。南の郭内やや西側の馬出跡(一段高い所)に塙記念館が建っていたが、
改変され石垣が積まれているのが不自然で残念だ。