武田・徳川氏攻防の城も、武田軍が長篠の合戦で大敗と共に徳川氏のものに
別名
能満寺山城
所在地
静岡県榛原郡吉田町能満寺山
形状
平山城
現状・遺構
現状:城址公園、能満寺
遺構:空堀、土塁、馬出、曲輪、模擬天守、模擬城門(大手門)、石碑、説明板
満足度(10点満点)
6点
訪城日
2007/02/17
歴史等
小山城は今川氏によって築かれた山崎砦が土台になっていると云われているが、その規模は不明である。
今川氏没落後、大井川を境として、西を徳川氏、東を武田氏が領有することになったが、武田軍は大井川を越えて山崎砦に入り小山城を築いた。
一方、徳川家康は松平真乗に小山周辺の知行地を与えた。その後、両軍の数回にわたる攻防戦の結果、元亀元年(1570)
小山城は徳川氏の領有するところとなった。
しかし、翌2年(1571)武田信玄は後北条氏に向けていた鉾先をかえして、遠江に2万5千の兵で攻め入り城を奪還し、大熊長秀に守らせ、
滝堺城(相良町)と共に高天神城
(掛川市上土方)を攻めるつなぎの城とした。
小山城の本格的な築城は、これ以降といわれる。信玄は馬場信房(信春)を奉行として堀・土塁を築き修築・築城した。
天正元年(1573)2月、信玄が没した。あとを継いだ勝頼は、同2年(1574)6月に高天神城を抜いて気を吐いたものの、
同3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗し、勢力は下降線を辿ることになった。同9年(1581)3月、高天神城が徳川軍に攻略されると、
天正10年(1582)2月、自ら城に火を放ち甲州へ落ち延びた。こうして武田・徳川氏の13年間の攻防の歴史は幕を閉じた。
『「小山城展望台パンフレット」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」より』
現況・登城記・感想等
所詮、小さな模擬城の建っている大した城址ではないだろうと思っての登城であったが、大きく裏切られた?
城郭そのものの規模は小さいが、一の曲輪の虎口外側には空堀、馬出曲輪と三日月堀が、二の曲輪ににも空堀が復元?されている。
そして何と云っても、最大の見所は三の曲輪の外側にある三重堀である。この三重堀を見つけた時は感激した。また、
三重堀の大手門近くの堀底には勘介井戸というのが残っていた。
また、小山城は、舌状大地の先端部を利用されて造られた城であり、3方がそれほど高くはないものの急崖になっているのがよくわかる。
また、二の丸跡に建つ模擬天守(展望台)に登ると非常に見晴らしがよく、御前崎や遠く南アルプスの山並みまでが望める。
(2007/02/17登城して)
ギャラリー
小山城遠景
本曲輪
本丸虎口
往時はこの赤い木の橋はなく、土橋があったようであり、㊨横から見ると分かるように土橋であったろう。
復元された馬出と三日月堀(武田氏特有の丸馬出と三日月堀が)
三重堀
ここが何といっても、この城の最大の見所であろう。これが見られただけでも来た価値がある!!
勘介井戸(山本勘介の声がかかっているとの伝えがある。
いかにも武田の城!!)
模擬大手門
展望台(模擬天守)上から
右から、本曲輪、空堀に虎口、その前に馬出曲輪、三日月堀。典型的な武田の城。