駿河 深沢城(御殿場市)

馬出しと本丸間の空堀に架かる土橋と本丸(奥)

「深沢城矢文」で有名な、北条氏・武田氏攻防の城

所在地

静岡県御殿場市深沢

形状

平城

現状・遺構等

現状:農地、林、家
遺構等:曲輪、空堀、馬出し、土橋、移築門、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/02/04

歴史等

もともとこの地には在地領主大森氏一族深沢氏の城があったが、戦国時代のはじめには今川氏の城であったようである。 しかし今川氏のいつの時代かは明確ではなく、今川氏親の時代に甲斐の武田氏への押さえとして築かれたのではないかと推定される。
足柄街道や甲州街道との分岐点にも近く、交通の要衝であったので、後北条氏や武田氏も重視していたと思われる。
深沢城が特に注目を集めたのは、元亀元年(1570)から始まる武田氏と後北条氏の深沢城攻防戦の時である。
駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、 今川氏真を遠江掛川城に追い落とし三国同盟は解消され、 深沢城は武田氏のものとなった。
元亀元年(1570)4月、北条氏康・氏政父子の兵3万8千が深沢城を攻め落とし、後北条氏は黄八幡で有名な北条綱成を城代に任じた。
今度は、北条綱成・松田憲秀が守る城を武田方が攻めた。元亀元年(1570)11月武田信玄が城を包囲し、甲州金山の鉱夫「金堀衆」 を投入し、いわゆる「もぐら戦術」によって城を掘り崩しにかかったことが、北条氏政の上杉謙信宛の書状によってわかる。翌元亀2年 (1571)1月3日、信玄は綱成に向けて「深沢城矢文」で有名な矢文を射ち込み開城を迫った。綱成は開城勧告を蹴って抵抗したが、 ついに30余日の籠城の末、小田原からの後詰めの軍勢が到着するのを待たずに開城し玉縄城へ退却した。
その後、後北条氏も奪回を試みたがかなわず、以後、天正10年(1582) の武田氏滅亡まで武田氏の重臣駒井右京之進昌直が城主として居城した。武田氏の城となってから、三日月堀や馬出しを造成したり、 かなり大掛かりな修築が行われたようである。
武田氏滅亡後は徳川家康の領土となった。家康は後北条氏への押さえの城として三宅惣左衛門康貞を置いていたが、天正18年(1590) の小田原の役にて後北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封すると深沢城も廃城となった。
『「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」、「現地説明板」参照』

【黄八幡】
北条綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成である。甲斐の武田信虎との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えた。やがて、 氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のった。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、 その軍勢とともに、日頃「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれた。

現況・登城記・感想等

深沢城は、武田氏と後北条氏との攻防、特に「深沢城矢文」で有名な城である。
抜川と馬伏川との合流点にある丘陵に築かれた城で、二つの河川が堀の役目を果たした要害の地となっている。城内へは、三の丸、二の丸、 本丸の順に見学出来る。各曲輪全てが農地として利用されているが、見学路はよく整備されている。
また、全曲輪共、それぞれに馬出しが設けられており、曲輪の周りや、曲輪間にはかなり大掛かりな空堀が残っている。特に、三の丸と二の丸間、 二の丸と本丸間の空堀は幅・深さとも相当なもので、非常に見応えがある。
本丸は抜川と馬伏川との合流点の渓谷が天然の堀となっており、雑木林で一部東西に分かれているが、両方を合わせると相当な広さ (東西150m、南北105m)がある。そして、本丸は二の丸より一段低くなっており、『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)小和田哲男氏』 によると、「深沢城の中心は本丸でなく、むしろ二の丸と思われ、本丸は捨て曲輪的な性格をもっていたようである」と記している。また、 「二の丸の西隅の畑の中から焼米が出土し、そこに兵糧蔵があったと思われ、城中の主要な建物は二の丸にあったようである」とも記している。
(2007/02/04登城して)

ギャラリー

深沢城址縄張略図   ~クリックにて拡大画面に~

深沢城址入口(三日月堀前) に建つ石碑

三日月堀
石碑裏の三日月堀。 木が密集しており写真では分かりづらい

空堀
城址に入って行くと、 いきなりこの空堀(当時は水堀かも?)の横に出る。写真右側に馬出しがある。武田式の典型的な城郭造りか? 堀の左側は三の丸。

三の丸の馬出し

下馬溜横の空堀
この空堀はかなり大掛かりなものであり、この城址の見所の一つであろう。 写真左側は下馬溜で、右側が三の丸の馬出し。写真奥は天然の堀「抜川」である。

二の丸手前にある「下馬溜」
下馬溜となっているが、二の丸虎口を防御する馬出しであろう。写真右下は上写真の空堀である。

二鶴様式の堀跡(三の丸と二の丸間の空堀)
城の説明板にも二鶴様式で築かれたとあったが、二鶴様式というのがどういうものかが分からない。

二の丸への土橋

二の丸
二の丸は約70m×約140mの細長い曲輪になっている。二の丸は本丸より一段高くなっており、 『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)小和田哲男氏』によると、「深沢城の中心は本丸でなく、むしろ二の丸と思われ、 本丸は捨て曲輪的な性格をもっていたようである」と記している。また、「二の丸の西隅の畑の中から焼米が出土し、 そこに兵糧蔵があったと思われ、城中の主要な建物は二の丸にあったようである」とも記している。

二の丸隅にある「食料庫跡」

二の丸・本丸(本丸馬出し)間の土橋(本丸側から写す)
写真でもはっきり分かるように、本丸より二の丸が一段高くなっている。 この土橋の両側の空堀もなかなかのものである。

本丸前の馬出し
周りを深い空堀で囲まれている。

本丸手前の空堀(馬出し・本丸間の空堀、左奥が本丸)
この空堀は実に深い大掛かりなもので、ここもこの城址の見所の一つである。

本丸
本丸は抜川と馬伏川との合流点の渓谷が天然の堀となっており、雑木林で一部東西に分かれているが、 両方を合わせると相当な広さ(東西150m、南北105m)がある。

櫓跡
櫓跡となっているが、本当に狭く、ちょっとした物見台程度のものか?

天然の堀「馬伏川」
急崖というほどではないが、それなりに要害地形である。
 

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