柳城中学校庭の隅に僅かに残る本丸石垣
立花宗茂が返り咲き、立花氏12代の城・柳川は掘割が縦横無尽に走る水郷
別名
立花城
所在地
福岡県柳川市本城町
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地
遺構:水堀、掘割、石垣、土塁、碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/02/10
歴史等
この地に初めて城が築かれたのは戦国時代で、筑後三潴郡蒲池一帯を本拠とする蒲池氏の治久が、文亀年間(1501~04)
に築いたとも、治久の孫の艦盛(あきもり)が永禄年間(1558~70)に築いたともいう。
艦盛の子の鎮並(しげなみ)は、豊後の大友宗麟に属していたが、天正6年(1578)の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗して以後、
肥前の竜造寺隆信に属した。
しかし、鎮並は竜造寺氏の待遇が不満で、同8年(1580)2月竜造寺氏に反旗を翻す。
そのため隆信は大軍をもって柳川城を攻囲したが攻めきれず、筑後山門郡の鷹尾城主・田尻艦直の斡旋で和睦した。
こうして一旦和睦したが、翌天正9年(1581)、鎮並が薩摩の島津氏に通じることを恐れた隆信は、隠居地・肥前須古城へ招いて謀殺し、
同時に竜造寺の軍勢が柳川城を攻めると主をなくした城はもろくも落城した。
蒲池氏滅亡後、柳川城は竜造寺氏の持城となったが、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州仕置後、立花山城主・
立花宗茂が13万2千石を与えられ入城する。しかし、立花宗茂は関ヶ原合戦にて西方についたため改易となった。
代わって三河岡崎城の田中吉政が、
関ヶ原の戦での功(岐阜城攻め、
さらに関ヶ原当日の主力決戦に功を挙げたばかりか、三成の本城佐和山城を攻略、
さらに部下たちが三成を生け捕るなど)により、筑後一国32万石5千の領主として柳川城へ入った。このとき、
筑後北部の支配の拠点である久留米城には次男・
則政(吉信)を、筑後福島城(八女市)には三男・康政を置いた。しかし、元和6年(1620)二代目・忠政(吉政の四男)
が嗣子がないまま死去し、田中氏は断絶した。
筑後国は再び分割され、立花宗茂が柳川藩12万石で旧領を回復し、立花種次が三池藩1万石、そして丹波福知山城の有馬豊氏が筑後北半21万石の大名として久留米城に入城した。
以後、柳川城は立花氏12代の居城として明治に至った。
戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった名城も、明治5年(1872)1月18日夕刻、失火により焼失し、石垣も、明治7年
(1874)の台風により海岸堤防が決壊したのでその補強に転用された。現在は、
柳城中学校の校庭の隅に本丸跡の小丘と石垣の一部を残すのみとなっている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」、「サイト・風雲戦国史・田中氏」
、「サイト・筑紫のしろのき」より』
現況・登城記・感想等
柳川城は、遺構としては柳城中学の片隅に石垣が取り壊された天守台が残り、一部石垣が残っているだけである。
しかし、柳川城址の主役は、市内を網の目のように巡らされた大規模な堀割であろう。
柳川市における水面の占める割合は面積の20パーセントを占め、総延長470キロメートルに達するという。
本来ならば、柳川観光のメイン「どんこ舟の川下り」を楽しみ、その後は、やはり柳川名物「うなぎのセイロ蒸し」といくところであるが、
残念ながら時間がなく、立花家別邸の「御花(松濤園)」に寄るだけで諦めた。
(2007/02/10登城して)
ギャラリー
柳城中学校庭隅に僅かに残る本丸の小丘(テニスコート奥)
戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった名城も、明治5年(1872)
1月18日夕刻、失火により焼失し、石垣も、明治7年(1874)の台風により海岸堤防が決壊したのでその補強に転用された。現在は、
柳城中学校の校庭の隅に本丸跡の小丘と石垣の一部を残すのみとなっている。
城址の小丘に立つ「柳川城跡」
の碑
掘割と柳川観光のメイン「どんこ舟の川下り」
柳川城址の主役は、市内を網の目のように巡らされた大規模な堀割であろう。
柳川市における水面の占める割合は面積の20パーセントを占め、総延長470キロメートルに達するという。この堀は内堀にあたり、左写真は、
御花乗下船場。
【柳川藩主別邸御花にて】
松濤園(国指定名勝) ~クリックにて拡大画面に~
仙台松島の景を模したともいわれ、
園内約280本の松は大部分200年以上の古木である。
雛飾り ~クリックにて拡大画面に~
柳川地方のひな壇に必ず添えられるのが"さげもん"で、
女の子の生まれた家庭では、その子の一生の幸せを願って、母親や祖母、親戚、知人などから"さげもん"が贈られる。縁起のよい鶴、亀、宝袋、
鶏、這い人形など手作りの布細工と、華やかな糸で巻かれた柳川まりを組み合わせた吊り雛である。
柳川城天守模型
天守の高さは35m、
石垣の高さは8mあり、天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていた。
金箔押桃形兜(きんぱくおしももなりかぶと)
桃形兜とは、頭部が桃の実をかたどっていることから付けられた名称で、
戦国時代には多く用いられた形式の兜である。立花家には400頭以上もの同様の桃形兜が伝わっており、中には文禄・
慶長の役に使用されたと伝えられるものもある。