丹波 福知山城(福知山市)

復元された天守閣

丹波の拠点として光秀が大改築をした平山城

別名

横山城、臥竜城

所在地

京都府福知山市字内記5

形状

平山城

現状・遺構等

遺構等:復元天守、曲輪、石垣、井戸、移築現存番所、碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

1995/08/20

歴史等

福知山城は、塩見氏(のちの横山氏)が土を掻き上げただけの砦を築いたことに始まるといわれる。
畿内を押さえた織田信長は、秀吉と光秀に中国攻めを命じた。秀吉は山陽道から西に向かい、光秀は山陰側から入った。
光秀は、天正7年(1579)横山城を攻略し、これで丹波一国を平定した。光秀は、信長から丹波を与えられ、それまでの亀山城から新たな居城とするべく、 横山を福智山と改めて、新たに築城した。福知山と改めたのは、後の朽木氏のときの享保13年(1728)である。 ただこの地には石垣に使う石材が少なく、光秀は墓石や五輪塔などまで徴用した。
光秀は、それまでの掻き上げただけの城を、屈曲した広い堀を掘り、石垣で主要部を守った近世的な城郭とした。ただ、中国攻めの途中でもあり、 完成までには到っていなかったようである。
築城開始から3年後の天正10年(1582)、信長から秀吉の加勢として中国行きを命じられた光秀は、突如、 方向を変えて本能寺に信長を襲った。
山崎の合戦後の天正11年(1583)には、杉原家次が入封したが、家次はまもなく病没した。代官支配を経て、同13年(1585) 小野木重勝が入封したが、重勝は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に与して自刃し除封となった。
合戦後の慶長7年(1602)、遠江横須賀から有馬豊氏が入封し、 福智山城と城下町を完成した。元和6年(1620)豊氏が、筑後久留米へ移封となった後は、 岡部長盛、稲葉紀通、(深溝)松平忠房がそれぞれ1代が在封したが、寛文9年(1669)朽木稙昌が常陸土浦から入封すると、 朽木氏が13代200年で明治を迎えた。
現在の天守は、絵図などを参考にして昭和61年に鉄筋コンクリートで外観を復元したものである
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「藩と城下町の事典(東京堂出版)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」」 等参照』

現況・登城記・感想等

福知山市内に入ると、町中からよく見える。城内に登ると四方の町並みや山並みがよく見え、 ここが福知山盆地の真ん中にあるのがよく分かる。
城内には石垣の転用石(石仏・石臼・灯篭など)が多く転がっていた。この城の石垣には非常に多くの転用石がつかわれ、 これほど多く使われているのは、他には大和郡山城にしか見られないそうである。
また、天守東側には「豊磐(とよいわ)の井」が残っている。深さ50mもある井戸で、深さは城郭内の井戸としては日本一といわれる。 ここの地表が海抜43mであるから、井戸底は海面下7mに達していることになるそうだ。
(1995/08/20訪城して)

ギャラリー

転用石(石仏・石臼・灯篭など)
城内には転用石が多く転がっていた。福知山城の石垣には非常に多くの転用石が使われ、 これほど多く使われているのは、他には大和郡山城にしか見られないそうである。
福知山城の転用石

豊磐(とよいわ)の井
深さ50mもある井戸で、深さは城郭内の井戸としては日本一といわれる。ここの地表が海抜43mであるから、 井戸底は海面下7mに達していることになる。
福知山城豊磐の井戸

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