堀越しに本丸正門(太鼓櫓門)と土塀
かつては霞ヶ浦に浮かぶ城も今では町の中の公園に
別名
亀城
所在地
茨城県土浦市中央1丁目
形状
平城
現状・遺構等
現状:本丸・二の丸が亀城公園、他は市街地
遺構等:本丸正門(太鼓櫓門)、本丸裏門(霞門)、前川口門(移築)、土塁、水堀(一部)、本丸西櫓(復元)、本丸東櫓(復元)
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/03/04
歴史等
伝説では、土浦城は平安の昔、平将門の砦に濫觴するというが、室町時代の永享年間(1429~1440)、筑波郡小田氏の将・若泉
(今泉)三郎が改修し、城郭のかたちを成したといわれる。その後、信田氏が入り、菅谷氏の時家康に接収される。
天正18年(1590)秀吉の養子・結城秀康(家康の二男でもある)の支城として結城氏の代官が入った。
秀康が越前福井に去った後、
松平信一が入り城内外の整備をし、本丸東西の2層の隅櫓をもうけた。そして次の西尾氏の次に城主になった朽木氏が本丸正門(太鼓櫓門)を、
さらに大河内松平氏もといった具合に少しずつ改修されていった。
そして土浦藩は貞享4年(1687)から土屋氏が10代200年在城し明治を迎えた。
『日本100の城(日本交通公社刊)参照』
現況・登城記・感想等
博物館の横に小さな駐車場があるが満車で他には駐車場がなく困った。歩いて13~14分位の武道館の駐車場に停められることが出来た。
駐車場から城に行く途中に、土浦藩の藩校・郁文館が建っていた。
城について、城域が予想していたよりはるかに小さいのに驚いた。水堀(内堀)は当時のものはなかなか広かったそうであるが、本丸・
二の丸を囲む土塁があまり高くないせいかあまり広くは感じない。
博物館側から本丸跡に入って行くと、西の端に西隅櫓、東の端に東隅櫓と高麗門の霞門があり、右奥には本丸表の太鼓櫓門が見える。
表門を出た所が二の丸である。ここから見る櫓門はなかなか立派である。そこから外丸跡のほうへ行くと、
旧前川口門という高麗門が二の門跡の所に移築されている。本丸堀に沿って左手に東櫓をみながら歩いて行き、再度、
霞門をくぐって本丸跡に入ると、東櫓に105円の入城料で入れるとのこと。東櫓の2階からは、往時は霞ヶ浦が見えたとのことであるが、
残念ながら今では土浦市街地が見えるだけである。
最後に博物館に寄ってみたら、その横に土浦領境界石と櫓門の礎石が並べて置いてあった。
(2006/03/04訪城して)
ギャラリー
土浦城の案内図(現在と江戸時代) ~クリックにて拡大画面に~
本丸の水堀(内堀)
西櫓
明治17年の失火でも類焼を免れたが、
昭和24年(1949)のキティー台風の被害を受け、後に復元を前提に解体され土塁上に礎石のみが残されていたが、平成3年(1991)
に復元完成された。
構造形式:木造本瓦葺き、2層2階、入母屋造り
本丸跡
右奥に本丸正門(太鼓櫓門)、
左奥に本丸裏門(霞門)と東櫓、東櫓と本丸正門の間には土塀
本丸正門(太鼓櫓門)
朽木氏時代に築かれた。明暦2年(1656)に改築されたと伝えられる。本丸にある櫓門としては関東地方では唯一現存するものである。
階上に太鼓を置き、時を知らせていたことから太鼓櫓門とも呼ばれた。昭和61年~62年(1986~87)に解体修理された。
構造形式:木造瓦葺、入母屋造り
東櫓
明治17年の失火で本丸館とともに焼失してしまったが、平成10年(1998)に復元された。
土浦市博物館の付属展示物館として入館できる。(本丸堀側から撮影)
構造形式:木造本瓦葺き、2層2階、入母屋造り
鯱瓦(東櫓内に展示)
昭和25年
(1950)に解体されるまで、西櫓に使用されていた。
東櫓2階からの眺望
往時は霞ヶ浦が見えたそうであるが、今では土浦市街地が見えるのみである。
本丸土塀(復元)
本丸土塁上に建つ塀は、
表(堀側)を塗り込めの大壁、裏側(本丸側)を柱・貫の見える真壁にして漆喰に仕上げてあり、石落しや鉄砲狭間・大筒狭間が設置されている。
本丸裏門の霞門(現存):
高麗門形式
貞享元年(1684)松平信興により築かれた。
旧前川口門(移築):
高麗門形式
武家屋敷の多計郭と町家の間を仕切る門で、江戸時代末期の建築である。
旧土浦町役場の門や等覚寺の山門に移築使用されていたが、昭和56年(1981)現在地(二の丸入り口にあたる二之門跡)に移築された。
櫓の礎石(博物館横に)
昭和62年
(1987)の本丸櫓門解体修理の際の発掘調査によって、現在の礎石の下から発見された。おそらく明暦2年(1656)
と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われる。
土浦藩の藩校・郁文館
郁文館の名称は7代藩主・土屋英直が名付け、はじめは土浦城内にあったが、10代藩主・
寅直の時に現在地に新築して移された。