越前 福井城(福井市)

水を満々と湛えた堀

家康の次男・結城秀康の壮大な城、昭和の大震災で石垣が倒壊

所在地

福井県福井市大手3丁目

形状

平城

現状・遺構等

現状:県庁、県警察本部など行政の中心地、市街地
遺構等:天守台、井戸、石垣、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2005/05/04他

歴史等

一乗谷を拠点としていた朝倉氏を滅ぼし、越前一向一揆も制圧した織田信長は、越前に柴田勝家を封じた。 勝家は要害ではあるが山間で不便な一乗谷を捨て、 北ノ庄と呼ばれていた平野の中心に新たに城を築いた。しかし、勝家は賤ケ岳の合戦で敗れ、さらに北ノ庄城も、 天守に火を放ちお市と共に滅びた。
関ヶ原合戦後、越前には徳川家康の次男結城秀康が67万石という大身で入部した。そして、慶長6年(1601)から6年の歳月をかけて、 北ノ庄城をそれに相応しい巨城へと築き直した。足羽川の北岸に築かれていた北ノ庄城を拡張し、福井城と改めて、中心部をより北に置き、 高石垣に守られた本丸を幾重もの曲輪と水堀で囲んだ。
秀康の子中直は乱行で知られ、豊後へ流された。ここで一旦断絶させられ、越後高田にいた忠直の弟忠昌が52万石で入って、 越前松平の祖となった。
しかし、歴代トラブルが続き、次第に石高を減らされ、一時は半分になったが、少し戻され32万石となって明治維新まで続いた。
天守は、白壁の4層5階で高さ約25mあった。城は寛文9年(1669)4月に火災で焼失し、藩では直ちに再建着手し、3年後の復旧したが、 天守閣だけは幕府の禁令により再建されなかった。
明治4年(1871)、城内の建物は破却され、堀は埋立てられ、二の丸・三の丸などは市街地になって、現在は内堀と本丸しか残っていない。
また、昭和23年(1948)福井大地震で石垣倒壊し、昭和58年(1983)石垣修復・整備した。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地案内板」参照』

現況・登城記・感想等

以前から福井への出張時に、堀端は何度も通り、城内も一度ちょろっと見たこともあったが、 改めてじっくり見て廻るのは今回が初めてである。
初代城主・結城秀康は家康の次男であり、武将としての器量は一流で、武勇抜群、剛毅でありながら、庶子であったが為、 弟の秀忠が嫡男とされた。また一時は人質として秀吉の養子となり、気に入られたという非常に興味深い人物である。
御本城橋を渡って城内に入ると、その結城秀康の石像があるが、その石像は何やら埴輪を思わせるような妙なものである。 御廊下橋を城内へ入った所には、綺麗な切り込みハギのかなり大きく立派な石垣の天守台がある。 天守台は控え天守台と主天守台の2段構造になっている。 控天守台の石垣は1948年の福井震災により崩れているのが痛々しく感じられるのと同時にその震災の凄まじさがよく分かる。
(2005/05/04訪城して)

ギャラリー

満々と水を湛えた本丸内堀



御本城橋

御本城橋から入城して石垣を内側から

結城秀康石像 (何やら埴輪を思わせるような妙なも感じだ)

天守台

福井の名の発祥「福の井」(天守台側の塁上に)

1948年の福井大震災にて崩れた天守台石垣①(福の井の北側)

福井大震災にて崩壊した天守台石垣②

天守台の上にて

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