越後 高田城(上越市)

復元三階櫓

家康の六男松平忠輝、天下普請の城に入城も僅か2年で改易

別名

鮫ケ城

所在地

新潟県上越市本城町6-1高田公園

形状

平城

現状・遺構等

現状:高田城址公園
遺構等:復元三階櫓、曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2006/05/01

歴史等

徳川家康の六男・松平忠輝は、福島城 (上越市)入城3年後の慶長18年(1613)に新城の計画を立て、翌慶長19年(1614)天下普請として、 上杉景勝・前田利常・最上家親等々13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅・伊達正宗が就任した。
築城された場所は、高田平野のやや西に寄った菩提ケ原と呼ばれていた所で、自然堤防の周りを蛇行した河川を利用して外堀とした。 外堀を含めると60ヘクタールもある大城郭の築城を、わずか4ヶ月で一応の完成をさせている。大坂の陣を控え、 江戸の背後を固めたものと云われている。
平城の高田城には他の平城とは違った2つの特徴がある。天守閣が建築されなかったことと、石垣が積まれなかったことである。その理由は、 主に時間的な問題であったと推測される。尤も、天守閣に替るものとしては三重櫓が建設されていた(築城当初は二重の櫓であったが、 松平光長の時代に地震で倒壊した際、三重櫓にした)。
忠輝は元和2年(1616)7月に改易となり、代わって酒井家次が入府。酒井家次・忠勝の後は松平忠昌、松平光長、幕府番城、稲葉正通、 戸田忠真、越前松平氏(5代31年間)とくるくる替るが、寛保元年(1741)榊原政永が高田城主として入封し、 6代130年間で明治維新を迎える。尚、榊原家は徳川四天王といわれた榊原康政を藩祖としている。
『パンフレット参照』

【松平忠輝】
松平忠輝は文禄元年(1592)、徳川家康の六男として浜松城にて生まれる。 8歳で伊達政宗の娘五郎八と婚約。慶長15年(1610)堀氏に代わり越後福島城主となる。 同19年(1614)、高田城を築き入城するが、在城わずか2年で改易、武州・深谷に謹慎。改易の理由には諸説があるが、 彼の進取の気概が災いしたともいえる。その後、深谷から伊勢の朝熊に流罪(2年)。朝熊から飛騨の高山へ(8年)、そして三代将軍家光の時、 信濃の諏訪へ。高島城の 「南の丸」に厳重な監視の下、幽閉地として58年間平穏に過ごし、天和3年(1683)92才の生涯を閉じた。

現況・登城記・感想等

今では夜桜で有名な高田城であるが、私は「松平忠輝」の城として興味をもって登城した。
高田城の特徴は何といっても水堀の壮大さであろう。本当にすごい!! 今でもその外堀・内堀の多くが残り、 非常に広い堀に満々と水を湛えており、往時の情景が目に浮かぶような気がする。佐賀城の広い水堀も、この高田城には勝てないであろう。 さすがに、天下普請で伊達政宗を総裁に天下の13もの大大名が関わり築城しただけのことはある。
(2006/05/01登城して)

ギャラリー

高田城絵図     ~クリックにて拡大画面に~

復元三階櫓(内堀外側から)

極楽橋(慶長19年(1614)、高田城が築城された際、 二の丸から本丸に通じる内堀を渡る木橋として
設けられたものである。明治41年(1908)、陸軍第13師団が入城の際、土塁を切り開き、埋め立てて
陸続きにした。文化財発掘調査により、橋の位置を確認し、上越市発足30周年及び高田公園開園50
周年を記念して平成14年(2002)復元した。
 

本丸跡

土塁(右側)と本丸御殿台跡(左側)? (極楽橋から本丸に入城した所に長方形の大きな土塁の
台があったが、何も説明がない。自分で勝手に本丸御殿の土塁台の跡と考えて、写真に撮った)

復元三階櫓(本丸跡から)

天守から(雪化粧した妙高がきれいだった)     (本丸跡の大部分は中学校の敷地になっている)
 

西側内堀                         内堀に黒鳥が
 

北堀(水を満々と湛えた、実に広い堀である)

桜見本園(三の丸)の八重桜            (奥に見えるのは極楽橋)
 

桜見本園の八重桜
(夜桜で有名な高田城であるが、染井吉野にはちょっと時期が遅かったが、八重桜がきれいだった。)
 

 

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