復元された本丸南櫓門付近の石垣
家康が高天神城奪還を企図し大須賀康高に築かせた城、丸石石垣が特徴的
別名
松尾城
所在地
静岡県掛川市横須賀
形状
平山城
現状・遺構等
現状:公園 【国指定史跡】
遺構等: 曲輪、石垣、土塁、堀、移築門、碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2005/08/17
歴史等
この地は、静岡へ天正6年(1578)徳川家康が、武田氏の拠点・高天神城奪還を企図して大須賀康高に命じて築かせ、天正8年
(1580)にほぼ完成した。
初めは、三熊野神社の裏山の三社山を適地と選定したが、三熊野神社の文武天皇に関わる由緒を知って、そこを避けた。
そして西方の王子権現を小谷田に移して、その跡地一帯を城地とすることにした。そして馬伏塚城主の大須賀康高が初代城主となり、
馬伏塚城は廃城となった。二代城主は忠政(康高養子、榊原康政次男)が継いだ。
天正18年(1590)、忠政が家康の関東移封に従い、上総久留里へと移った。
代わって渡瀬詮繁(あきしげ)、次に有馬豊氏が城主となった。
関ヶ原合戦後、有馬豊氏は丹波福知山へ移り、
再び大須賀忠政が6万石を領して城主となった。この忠政によって、横須賀城は近世城郭へと修築された。以後、能見松平・井上・
本多氏が城主となり、天和2年(1682)に信濃小諸より西尾忠成が2万石で入封し、
西尾氏が8代続いて明治を迎えた。そして、明治元年(1868)20代藩主西尾忠篤の時、駿府藩の成立で安房国花房(現千葉県鴨川市)
に移封となった。そして、明治2年(1869)廃城となった。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞刊)参照』
現況・登城記・感想等
この掛川市横須賀(当時は小笠郡大須賀町横須賀)は、1976年に静岡へ転勤になって月に一度は仕事で、必ず来ていた所である。
しかも、この城のすぐ50mほどの所に・・・。まさに、灯台下暗しである。当時から、この城の存在は知ってはいたが場所がよく分からず、
如何にも城山っぽい崖山がもう少し東の方にあり、それが横須賀城址と思っていた。今から思えば、それが最初に城の適地として選ばれた
「三社山」だったのである。
今回、それから30年ぶり位にやってきた。まずは西の丸から登城し、本丸へ出た。西の丸や本丸から遠州灘方面がよく見える。
本丸にはそれほど高くはない天守台跡がある。かつて三層四階の天守が存在したそうである。本丸からは、北の丸も見え、
その奥に松尾山が見える。
この城の特徴は何といっても、三日月堀から西の丸下段、そして本の丸に至る南側の丸い石の石垣であろう。セメント等がなく、
せいぜい石灰くらいしか無かったであろう時代に、よくこんな丸い石で石垣が組めたものだ。この丸石は天竜川の河原から運ばれたそうである。
本丸下の南側(正面)の石垣は他の部分より少し高いとはいいながら、他の城によくある高石垣と較べるとそれほど高くはない。しかしながら、
この真ん丸い石で組まれた高石垣は、何ともいえず綺麗というか奇妙である。トータルして、
この城跡は主郭部分が綺麗に整備されたいい公園になっていて気持ちがいい。
【横須賀湊と横須賀城】
かつては、城のすぐ南面は、遠州灘から深く入り込む入江があって、天然の要害となし、横須賀湊は水上交通と物流の拠点となり、
海辺の道と海運の拠点として遠州灘を押さえる要衝であった。城前のこの入江は、宝永4年(1676)
の宝永大地震による地盤隆起によって干上がり、城周辺の様子は一変し、湊も使えなくなった。現在、
海岸まで直線にしておよそ2kmが陸地となっている。
ギャラリー
横須賀城絵図(全体図)
本丸付近絵図
西の丸
本丸に隣接しており、高低差もない。
本丸
天守台
二段の玉石垣と礎石群がある。かつては三層四階の天守があった。
天守台からの眺望
遠州灘方面。かつては、城前が入り江になっていた。
宝永4年(1676)の宝永大地震による地盤隆起によって干上がってしまった。
本丸南東部の石垣
ここの石垣が一番高く、何とも云えず良かった。
三日月池
本丸の大手口に向かう方面を固める三日月堀
北の丸
本丸の背後にある。右側に松尾山
米蔵から二の丸方面
手前が米蔵跡、二の丸方面はほとんど農地や宅地になっている。