本来の天守台の隣に建てられた復興天守
里見氏、全盛期の居城
別名
雨城
所在地
千葉県君津市久留里
形状
山城(標高:145m、比高:102m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:復興天守閣、天守台、曲輪、土塁、堀切、竪堀、碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/01/08
歴史等
戦国時代の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城(くるりじょう)もその一族の居城であった。
上総武田氏は甲斐武田氏・武田信満の子・武田信長に始まる家系である。
信長は古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められ同国を支配した。信長の息子・信高の死後、次子は庁南城に、長子は真里谷城に本拠を構えた。
天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義尭が上総に進出し、上総の本拠地とした。
永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、
里見氏は後北条氏に敗北、久留里城も一時、後北条氏の手に落ちた。しかし2年後、里見氏は久留里城を奪還し、
上総の大半と下総の一部を制圧した。その後、再三にわたり後北条氏に攻められたが久留里城は落とされることはなかった。
しかし後北条氏の勢力に押され、天正5年(1577)、里見義弘は後北条氏と和睦した。義弘の死後、
家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれた。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、
里見氏は遅参のため豊臣秀吉により上総領を没収され安房一国だけとなった。
以後、関東は徳川家康の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石で入城したが、慶長6年(1601)遠江横須賀へ転封となり、
慶長7年(1602)には、2代将軍秀忠付近習土屋忠直が2万石で入城した。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、
土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留里で過ごしている。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年
(1679)、狂気を理由に改易、廃城となった。
約60年後の寛保2年(1742)、上野沼田より黒田直純が3万石で入封し、
幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興した。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、
明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられた。
『「現地説明板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」より』
現況・登城記・感想等
登城前は、所詮、天守が復興された平山城、たいしたことはないだろうと思っていた。
登り始めるとすぐに現在の観光用の広い道とは別に、右側に当時の登城道らしき階段があり、登っていくと、
その道の側面は急峻な崖になっている。少し行くと堀切があり、崖側の眼下に久留里の町並みが木々の間から見える。さらに進んで行くと、
二の丸に資料館が建っている。そのすぐ下に薬師曲輪跡があり、そこには眼下に拡がる久留里の町並みの景色の説明板があり、三の丸跡、
大手門の位置、堀跡等々がよく分かる。町並みからは結構な比高差(三の丸と102m)がある。これは平山城ではなく、なかなかの山城だ。
そこからさらに男井戸・女井戸を左手に見ながら登っていくと、本丸の天守閣が見え、そのすぐ下には波多野曲輪跡がある。
天守台の石垣は典型的な現代風のものであるが、すぐ横には相撲の土俵のような本物の天守台が保護されて残っている。また、
本丸の回りに僅かながら土塁も残っており、土塀が復元されている。
本丸からの景色は、まさに山城のもので、町並みと反対側は、幾重にも山並みが連なっている。以前登城した備中松山城
(高梁城)とよく似た景色で嬉しくなってくる。
それと、この城は曲輪や堀切などの案内の杭がそれぞれに建ててあり、見て回る人に親切だ。天守閣はともかく、
曲輪跡等の遺構も結構残っているし、山城の風情もあり、なかなか良かった。
(2006/01/08訪城して)
ギャラリー
切岸
駐車場から、最初は強烈な切岸の下の道を歩いて登る。
登城道
㊧途中から、往時の切岸の上へと登り、㊨往時の登城道?を行く。
堀切
堀切が、そのまま山麓へと強烈な竪堀となって落ちている。
薬師曲輪跡
二の丸の長屋塀跡
二の丸跡には資料館が建っている。写真の辺り(二の丸西側の三の丸が望める辺り)には、
長屋塀と呼ばれた多聞櫓のような建物が建っていたそうだ。
復興天守
手前の土台が本来の天守台である。二層造りであるが、一般に天守と呼ばれていて、外観もそれなりに再現されているようです。
天守台(奥に見えるのが天守閣)
天守閣から眼下に見える久留里の眺望
この方向以外は全て山・山・山しか見えない。まさに山の中である。
三の丸跡あたりからの遠景