天守風展望台
天正遣欧少年使節の一人・千々石ミゲル出生の地
別名
千々石城(ちじわじょう)
所在地
長崎県雲仙市千々石己小倉名
(旧南高来郡千々石町小倉名城山)
千々石の町へ入ると遠くからでも見えるので分かると思う
形状
山城
現状・遺構等
遺構等:曲輪跡、空堀、模擬天守(展望台)、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/02/11
歴史等
室町末期乱世の頃、原城構築者有馬貴純の族臣淡路守が主命により半島西口の要地である千々石に来り領した。
そして小倉城山に城を築いた。これが釜蓋城(かまぶたじょう)である。時に永禄12年(1569)であった。
その後有馬晴信の代に、淡路守の子千々石大和守直員が父のあとを継いだとき、天正5年(1577)
龍造寺隆信は数万の兵を以て半島に迫り一隊の部将は千々石釜蓋城に攻めよせた。・・・(中略)・・・城将大和守は頗る胆力があり、
急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎と力戦大いに勉めたけれども衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃した。時に25歳。
以上「千々石町史より」
日本の文化史上忘れてはならない先駆者・
天正遣欧少年使節の1人 千々石清左衛門直員はこの釜蓋城主千々石大和守の忘れ形見であり天正10年(1582)有馬家の代表として、大村、
大友の両大名から選ばれた少年使節とともに万里の波涛を越えてローマ法皇に謁見し8年の歳月をかけて歴史的致命を果した。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
今日は、長崎時代の仲間・高橋さん、関屋さん、水島さんに付き合ってもらっての登城である。昨晩の宴会の酒が残っており、
高橋さんに運転してもらい出発!! 山本勇輔君は、いつもの如く、午前中はつぶれてる。
千々石町に入りしばらくすると、左前方の高台に小さな模擬天守(展望台)が見えてくる。車で登って行くとグラウンドに出る。
そこからは歩いて登るが、石段が実にきれいに整備されている。当然、この登城道は往時の道ではないであろうし、往時の様子は全く分からない。
がっかりしながら、その展望台に上がって景色を見ると、これが実に絶景である。眼下に千々石の町並み、
その向こうには橘湾の真っ青な海の色と千々石海岸に打ち寄せる白い波の色。そしてその右後方には長崎半島が、左側には島原半島が広がる。
素晴らしい!!。しばらく魅入ってしまった。
千々石は、千々石ミゲルの出生の地であり、模擬天守の隣には千々石ミゲルを偲ぶ石碑がある。
その後、天守展望台の裏側に廻ったら曲輪跡らしい削平地があり、切岸も確認できた。さらに、そこから降りていく如何にも山城の登城道
(遊歩道)らしきものもあった。多分、空堀等も確認出来るのではと思ったが、今日はこの後、遠く原城と日野江城がある。
残念ではあるが、時間の関係で省略した。
(2007/02/11登城して)
ギャラリー
天守風展望台
展望台からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
展望台に上がって景色を見ると、
これが実に絶景である。眼下に千々石の町並み、その向こうには橘湾の真っ青な海の色と千々石海岸に打ち寄せる白い波の色。
そしてその右後方には長崎半島が、左側には島原半島が広がる。素晴らしい!!。しばらく見入ってしまった。
千々石ミゲルを偲ぶ石碑
石仏・神父像(キリシタン遺物)
展望台裏の削平地
天守展望台の裏側に廻ったら曲輪跡らしい削平地があり、切岸らしきものも確認できた。
さらに、そこから下っていく如何にも山城の登城道(遊歩道)らしきものもあった。