遠江 高天神城(掛川市)

城址遠景

武田信玄・勝頼vs徳川家康攻防の城

所在地

静岡県掛川市上土方・上土方嶺向

形状

山城(標高:132m、比高:100m余り)

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸、石牢、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和50年10月16日
指定理由:主要郭が遺存しており、中世・戦国時代の城の役割を知るうえで重要な遺跡
面積:5万473㎡

満足度

★★★★☆

訪城日

1990/02/04
2007/05/27

歴史等

高天神城は、標高132mの鶴翁山を中心に放射状に伸びる幾つかの尾根を巧みに使った山城である。見晴らしがよく、 尾根がやつでの葉のように入り組んで、谷が入り込む複雑な地形であり、さらに中小の河川が流れて、天然の堀を形成している。 まさに天然の要害の地と云え、「難攻不落の名城」と呼ばれていた。
高天神城の築城は、室町時代、今川氏が守護大名から戦国大名に成長していく過程で築かれたとする説が有力であると云われている。
桶狭間の合戦で今川義元が敗れると、松平元康(徳川家康)が勢力を広げると、城代・小笠原長忠は徳川氏につき、引き続き城代となった。
一方、甲斐の武田信玄にとっても、駿河・遠江は重要な地域であった。「高天神を制するものは遠江を制する」とまで言われており、 信玄は元亀2年(1571)3月、信玄は2万余の軍勢を率いて遠江に侵攻し、内藤昌豊に高天神城を攻撃させたが、 城を陥とすことは出来なかった。
しかし、この戦いから3年後の天正2年(1574)、信玄の跡を継いだ武田勝頼が2万余の軍勢で高天神城に来攻し、ついに開城させた。以後、 高天神城は武田氏の遠江における最大の拠点となり、本格的に整備・改修を施され、大規模で実践的な山城として完成したと考えられている。
しかし、天正3年(1757)の「長篠の合戦」で織田・徳川軍に大敗した勝頼は、その後、衰退。 横須賀城馬伏塚城を拠点とした家康が、 天正9年(1581)、再度高天神城の奪還に成功した。
高天神城を制した徳川家康は遠江を手中に収め、武田氏の拠点高天神城は廃城となった。
『「掛川市役所商工観光課パンフレット」、「馬伏塚城案内板」参照』

現況・登城記・感想等

戦国当時には高天神は三河、遠江、駿河を結ぶ重要な拠点であり、「高天神を制するものは遠州を制す」と言われ、 遠州の支配権をめぐって徳川と武田の激戦が繰り広げられた事で有名な城である。遠くから見上げる高天神山は、 それほど急峻ではないようにみえる。
この城は、現在では搦手口からの登城道が一般的になっている。絡手門跡から入城すると、 いきなり右正面に50~60mはあろうかと思える強烈な急崖が見える。この光景は如何にも山城の醍醐味を感じさせてくれる。
登城道自体は、それほどきついものではない。途中、三日月井戸を通り、ほぼ登りきった所で、本丸方面と二の丸方面に分かれる。
本丸方面には、本丸の他に、的場曲輪・御前曲輪・三の丸があり、大河内政局が幽閉された石牢址や元天神社がある。本丸跡と三の丸跡には、 僅かながら土塁が残っている。本丸や三の丸は鬱蒼と生い茂った木々のため眺望はよくないが、御前曲輪はやや開けた所があり、 その眺望はなかなかのものである。いずれも外壁側は断崖絶壁になっている。三の丸からは、追手門方面へ下れるようになっている。
二の丸方面には、二の丸の他に、井戸曲輪・西の丸・堂の尾曲輪・高天神社・馬場平等がある。二の丸への道は、右側は登城するなり、 いきなり見えた崖であり、まさに断崖絶壁であるが、眺望は素晴らしい。中でも、一番の見所は、 二の丸奥の袖曲輪と堂の尾曲輪の間の堀切であろう。二の丸と袖曲輪の下には結構大掛かりな空堀跡が確認できる。 高天神社への結構きつい階段を登り、その奥には馬場平へと続く。馬場平は展望台になっており眺望が素晴らしい。
一方、追手門から見る高天神城は、一見攻め易そうに見えるが、木々が生い茂っているが、左側は急崖になっているようであり、右側は山 (登城道すぐ右上に櫓跡もあった)で、右上から攻撃されたら、登城道はそう簡単には通れないであろう。
高天神城は、山全体が城郭となっている典型的な戦国期の山城で、規模も大きく、城攻めは容易なことではなかったであろうことがよく分かる。
(1990/02/04、2007/05/27登城して)

ギャラリー

高天神城略図                    ~クリックにて拡大画面に~

 

【搦手門から】

㊧搦手門跡、㊨搦手口からの登城道  ~㊨はクリックにて拡大画面に~
この城は、 現在では搦手口からの登城道が一般的になっている。絡手門跡から入城すると、 いきなり右正面に50~60mはあろうかと思える強烈な急崖が見える。この光景は如何にも山城の醍醐味を感じさせてくれる。
 

㊧三日月井戸、 ㊨大河内政局石窟
㊧三日月井戸は、天正2年7月籠城した武田勢は飲料水に恵まれる様にと水乞いの祈願を込めて井戸を造った。 今もごく僅かながらも崖壁からしみ出る垂れ水が絶えることがない。
㊨石窟は、天正2年の開城時に、最後まで武田勝頼に降伏しなかった大河内源三郎政局が8年にわたって幽閉された石窟。

 

本丸(右奥と左側には、僅かに土塁が残っていた)

㊧本丸の土塁、 ㊨本丸虎口
 

㊧御前曲輪、 ㊨元の高天神社
本丸のすぐ下にある御前曲輪にはなぜか、鎧武者と姫君が。まさか、徳川家康ではないだろうと思って見たら、 小笠原与八郎長忠となっていて安心?した。でも、それじゃあチョット地味では?せめて武田勝頼にすればいいのに!?
 

㊧三の丸、㊨三の丸の土塁(三の丸は、あまり広くない。 周りの土塁が結構残っている)
 

高天神社への石段と井戸曲輪
高天神社は、城中守護の神社で、約260年前に本丸跡から現在の地に移した。

㊧井戸曲輪のかな井戸、㊨井戸曲輪の稲荷神社
 

㊧二の丸、㊨袖曲輪
 

袖曲輪・堂の尾曲輪間の堀切①  ~クリックにて拡大画面に~
手前が袖曲輪、 堀切の向こう側が堂の尾曲輪。この堀切は、なかなか見事なものであった。

袖曲輪・堂の尾曲輪間の堀切②  ~クリックにて拡大画面に~
左側が堂の尾曲輪、右側が袖曲輪。

袖曲輪・堂の尾曲輪間の堀切と土橋と空堀 ~クリックにて拡大画面に~
中央の土橋の両側が空堀で、 奥に上写真の堀切が。右側が袖曲輪、左側が堂の尾曲輪

㊧堂の尾曲輪下の空堀、㊨二の丸・袖曲輪下の空堀
 

 

【大手門から】

大手門跡

㊧着到櫓跡と㊨着到櫓跡に残る土塁
大手門跡のすぐそばに着到櫓跡があり、そこの土塁はかなり高い。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント