高天神城攻略のための家康の重要拠点の城
所在地
静岡県袋井市岡山
形状
平城
現状・遺構
現状:神社、住宅地、田園等
遺構:曲輪、土塁、石碑、案内板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/05/27
歴史等
馬伏塚城(まむしづかじょう)はいつ築かれたかは定かではないが、文亀元年(1501)
遠江国守護斯波氏と駿河国守護今川氏が遠江国支配権をめぐって中遠地区で激しい戦闘が繰り広げられた時に、
今川方の拠点として久野城(別名座王城、現袋井市)
・天方城(森町)と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果たしていたことが分かる。
城主として初めて確かな史料に登場するのは、今川氏の重臣で遠江小笠原氏の小笠原春茂(春義、春儀)とその子の氏興(氏清)
で高天神城の城主も兼ねていたとされる。
今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となる。
天正2年(1574)6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、
徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、
8月1日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造り上げた。
城主には家康の重臣大須賀康高を置き、天正9年(1581)に高天神城が落城するまで、
天正6年(1578)に築かれた横須賀城と共に、
戦略上重要な位置を占めた。
しかし、家康による遠江支配が安定する天正10年(1582)には、その役割を終え廃城となった。
『現地案内板より』
現況・登城記・感想等
城跡に着いたら、いきなり「堀切だ!」と思って喜んだが、案内板の復元図を見てみると、
どうやらこれは利便性のために最近造った道のようだった。残念!!
城跡は神曲輪跡が残るのみらしいが、その神曲輪の切岸とその周りの水田が往時の城郭の面影を想い起こさせてくれるようである。
水田はまさに水堀そのものの形である。また神社境内には、一段高くなった櫓台らしき上に祠があった。
(2007/05/27登城して)
ギャラリー
神曲輪の切岸とその周囲の水田
周囲をめぐる水田は、まさに水堀そのものが残っているような?
堀切と思いきや!
城跡に着いたら、
いきなり「堀切だ!」と思って喜んだが、案内板の復元図を見てみると、どうやらこれは利便性のために最近造った道のようだった。残念!!
誰でも、城跡でこんなの見たら一瞬間違えますよねえ??
諏訪神社
鳥居の左脇土塁に可愛らしい石碑が。
櫓台?
一段高い所には、神社の祠が建っている。