伊予 大洲城(大洲市)

鎌倉時代に地蔵ヶ岳に築かれた砦は、近世平山城となり、平成の世に復元天守が蘇った

別名

比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城

所在地

愛媛県大洲市大洲

形状

平山城

現状・遺構

現状:城址公園
遺構等:復元(天守、多聞櫓)、現存(高欄櫓、台所櫓、苧綿櫓、南隅櫓)、石垣、内堀、曲輪、石碑、説明板

満足度(10点満点)

6点

歴史等

大洲城(おおずじょう)は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城(じぞうがだけじょう)が始まりといわれている。
天正13年(1585)秀吉の四国平定後、道後湯月城を本拠とする小早川隆景の枝城となった。 その後、戸田勝隆、藤堂高虎の支配下に置かれ、慶長14年(1609)、淡路洲本から脇坂安治が5万3千石で入封した。 このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられている。
その後、元和3年(1617)米子から加藤貞泰が6万石で入封し、以後、明治維新を迎えるまで加藤氏がこの地を治めた。
明治21年(1888)には天守が取り壊されたが、4棟の櫓は解体をまぬがれた。
そして、平成16年(2004)本丸跡に4層4階の天守閣が復元された。復元には、明治期の古写真や「天守雛形(ひながた)」 と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料が使われた。
『「大洲市公式ホームページ:http://www.city.ozu.ehime.jp/outer/ss/nagameru_asobu_02.html」 、「パンフレット」参照』

現況・登城記・感想等

大洲市は伊予の小京都と云われるだけあって、城下町の風情がよく残る町だ。城の下から見える高石垣と天守の姿はなかなかのものである。 また、下段の曲輪跡などは、今もなお、さらに発掘調査が続けられているようであった。
本丸跡には、復元天守を中心に、台所櫓(現存)、高欄櫓(現存)とL字型に復元多聞櫓で連結した複連結式天守が建っている。 本丸からの眺望は非常に良く、遥か真下に、肱川(ひじかわ)が流れ、天然の要害地であったのが良く分かる。
また城遺構としては他にも、二の丸東隅の肱川畔に芋綿櫓、少し離れた高校運動場脇に三の丸南隅櫓が現存している。
(2007/05/02登城して)

ギャラリー

高石垣と天守閣(復元)

 

天守閣と各櫓
右から台所櫓(現存)、 天守閣(復元)、西多聞櫓(復元)、高欄櫓(現存)

要害の地・大洲城(東方面は、直下に肱川が。相当な高さで、 しかも急崖である)

井戸丸
大洲城の本丸は上段と下段に分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称している。 この井戸は本丸にある唯一の井戸で直径3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸である。

天守閣の礎石 (天守閣の礎石が二の丸ところに置いてあった)
平成16年の天守閣復元に伴う調査により、礎石と呼ばれる石が6個発見された。発見された礎石の位置は天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、 大洲城天守閣の位置であることが明らかになった。
大洲城の礎石は16個あったと想定されるが、発見された6個以外は、すべて抜き取られていた。 ここに復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個を展示している。正方形に表現した部分が天守閣の柱の位置で、 礎石は発見された位置に置いてある。
天守閣の大きさは、南北11.82m、東西13.79mである。

三の丸(西側の三の丸跡は、親水公園になっている)

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