伊予 今治城(今治市)

天守と天守山里櫓

築城の名人藤堂高虎築城の日本三大水城

別名

吹揚城

所在地

愛媛県今治市通町

形状

平城(海城)

現状・遺構等

現状:吹揚公園 【県指定史跡】
遺構等:復元?天守、復元櫓、復元門、石垣、土塁、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2007/05/01

歴史等

戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の領主村上武吉が居城していたが、天正13年(1585)秀吉による四国征伐で侵攻した小早川隆景に戦うことなく開城した。
伊予平定後、隆景に国府城を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年(1587)筑前名島に転封となった。代わって、福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城したが、これも8年後の文禄4年(1595)清洲城に転封となった。
その後、池田景雄(慶長の役で1598年戦死)、小川祐忠(関ヶ原の合戦で西軍に加わり改易)と城主が変わり、慶長5年(1600)藤堂高虎が伊予半国20万石の城主となった。
高虎は発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や経済発展に便利な城下町を建設するため、城域を越智平野中央の今張に定めた。慶長7年(1602)6月11日に普請を開始し、慶長9年(1604)9月に完成した。その広さは8町16間四方(約873m四方)を城域とし、三重の堀に海水を引き入れた大規模な海城であった。本丸には高さ8間(14.56m)の石垣の上に5層高楼の天守があり、二の丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が、要所要所には城門や櫓をもうけた。石積みは野面積みで、軟弱な地盤を補うために、本丸、二の丸の石垣の下には犬走りを巡らせた。
慶長13年(1608)高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封となり、今治2万石に藤堂高吉を処守で残し、伊勢津に去った。その際、天守は解体し、伊賀上野城に移築するつもりで大阪まで運んだが、慶長15年(1610)天下普請の丹波亀山城に移築すろこととなった。(ただ、天守の存在は確認されてなく、もともとなかったという説もある。)
高吉が約27年間処守を務めた後は、寛永12年(1635)家康の甥の(久松)松平定房(家康の異父弟松平定勝の五男)が3万石で就封し、(久松)松平家の居城として明治維新を迎えた。
『天守内パンフレット参照』

【天守閣と櫓の復元について
現在の天守閣は、昭和55年今治市市制施行60周年事業として再建されたもので、同年に武具櫓を、昭和60年に御金櫓を、そして平成2年には山里櫓を再建した。可能なかぎり史実に沿うため、丹波亀山城古写真(移築後の天守が明治10年まで存続)、今治城古写真(慶応3年撮影)、貞享・安永の今治城絵図、藤堂家の家譜「宗国史」などの資料をもとに再建した。
(以上パンフより)
ただ、今治城の天守は発掘調査では存在しなかったという説もある。

【日本三大水城】
今治城、高松城 (高松市)、中津城(中津市)

現況・登城記・感想等

今治城は、一言で言えば「端正な城」と言えるであろう。さすが、築城の名人藤堂高虎の作だけある。もともとは3重の堀に海水を引き入れた、非常に大規模な海城だったそうである。
今は内堀しか残っていないが、幅の広い水堀と高石垣、そしてその上にそびえるスマートな天守と櫓のコラボレーションは実に素晴らしい。
中でも中央に天守、左に山里櫓、右には曲線の美しい石垣が見える場所が気に入り、写真にと思ったが、全ては入りきらない。広角カメラを持ち合わせなかったのが非常に残念であった。
尚、今治城に天守は存在しなかったという説もあるが、例え模擬天守であったとしても、その姿が美しいことには違いない。
また、天守上からの瀬戸内海他の眺望も素晴らしかった。いやあ!今回の旅で初めて天守に登ることが出来た(^^)
(2007/05/01登城して)

ギャラリー

天守と天守山里櫓① ~クリックにて拡大画面に~
中でも中央に天守、左に山里曲輪、右には曲線の美しい石垣が見える場所が気に入り、写真にと思ったが、全ては入りきらない。広角カメラを持ち合わせなかったのが非常に残念であった。


天守と天守山里櫓②
止むを得ず、2枚の写真を継接ぎしてみた。

スマートな天守閣(模擬?) 元々天守閣はなかったとの説もある。
築城以来、約400年後の1980年10月に市制60周年記念事業として、天守閣・多聞櫓・武具櫓を再建した。

本丸表門

【復元された3つの櫓】 ㊧は堀の外から撮影、㊨は天守上から撮影
「山里櫓」
1990年10月に市制70周年記念事業として再建した。

「武具櫓」
1980年10月に市制60周年記念事業として、天守閣・多聞櫓と共に再建した。

御金櫓
1985年3月再建した。

天守からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
今治港・来島海峡大橋方面を望む。

藤堂高虎銅像

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コメント

今治の信ちゃん(2011/11/01)

タクジローさん今治城を褒めていただきありがとうございました。
しかし、出来れば歴史上無かった天守は撤去していただき、本丸の四隅に二層の隅櫓を建てて多聞櫓で囲ってもらいたいものです。

そのほうが綺麗だと私は思います。
大洲城の木造の復興天守を見てつくずく思いますがいかがでしょうか!
今治人の認識の甘さを恥じ入ります。

これからも良い旅を続けてください。

タクジロー(2011/11/03)

今治の信ちゃん
ご訪問とコメント、ありがとうございます。
私も、むやみに模擬天守が建てられるのは好きではないですが、郡上八幡城や横手城などのように、昭和に入ってから建てられた「明らかに存在しなかった天守」も、今では町のシンボルになっています。しかも、郡上八幡城に至っては、司馬遼太郎をして「日本で最も美しい山城」とまで言わしめています。
今治城は、パンフの中では、存在したという説から成り立っているようですし、私は郡上八幡城以上に美しい天守だと思いますので、「まあ、有りかな」という気持ちが強いですが、如何でしょうか?
これからも、時々、当サイトに立ち寄り、ご意見なども宜しくお願い致します。

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