宇都宮氏の分家・児山氏の居城、今も本丸土塁と堀が完存
所在地
栃木県下野市石古山
(華蔵寺:下古山928-2、TEL0285-53-1180)の北西一帯
形状
平城
現状・遺構
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
6点
訪城日
2008/01/15
歴史等
児山城は鎌倉時代後期(13世紀後半)に宇都宮頼綱の四男・多功宗朝が、その二男(または三男)朝定に児山郷を分封し、
宇都宮城の南を守る支城として築城したと伝えられている。以後、朝定は姓を児山氏と改めた。
永禄元年(1558)、上杉謙信は下野に攻め込み、宇都宮城を攻めるために、支城の多功城を攻撃したが、その際に、
児山城主の児山兼朝が討死し落城、廃城となったという。
現況・登城記・感想等
華蔵寺の北西一帯が児山城址である。寺の入口手前に3台ほど置ける駐車場があり、すぐ目の前に外堀があり、
寺の入口には城址碑が建っている。
整備された遊歩道に沿って行くと、大規模な内堀と土塁が現れ、嬉しくなってくる。
内堀に架かる土橋を渡って、虎口から入って行くと、高さ3mほどの土塁に囲まれた長方形の曲輪内へと出る。
土塁上は一周することが出来る。土塁の周りは全て堀で囲まれ、土塁上から堀底までは、今でも6mほどはあるであろう。
往時は水堀であったようだ。また、土塁の4隅は他の部分より高くて幅も広く、往時は櫓が建っていたであろうことが分かる。
さすが、説明板に「本丸の堀と土塁がほぼ完全な形で残されている」と記されているだけのことはある。本丸の土塁と堀は見事なものであり、
感激した。
また、本丸の南側の辺り一帯にも堀跡や土塁が容易に確認でき、かなりの広さであったことが分かる。
【余談】
今朝は本当に寒く、当所では気温は「-5度」であった。札幌在住時代でも寒い部類に入る気温である。息を吐くと、真っ白になり、
ブルブル震えながらの登城であったが、これだけの遺構を見ることができて、それもどっかへ飛んでいってしまった。
(2008/01/15登城して)
ギャラリー
㊨外堀、 ㊨城址碑
華蔵寺入口手前に駐車場があり、すぐ目の前に外堀があり、寺の入口には城址碑が建っている。
本丸東側の内堀
整備された遊歩道に沿って行くと、大規模な内堀と土塁が現れ、嬉しくなってくる。
本丸土塁の周りを全周する堀は、6~9m幅があり、往時は水堀であったようである。
本丸南側の内堀と土橋
本丸南東の土塁(櫓台)
本丸曲輪への土橋と虎口
本丸内
本丸は土塁が周りを巡らし、東西より南北が長く、北よりも南が張ったやや不整形な長方形をしている。
【土塁上を一周する】
土塁の上は一周することが出来る。土塁の高さは、3m~3.5mあり、4隅は他の部分より高くて幅も広く、
往時は櫓が建っていたであろうことが分かる。
南東の土塁(櫓台)
東側土塁と堀(堀底までは6mはあろうと思われた)
北側土塁
北西の土塁(櫓台)
南西にあるもう一つの虎口と土橋
【本丸の南側にも残る遺構】
本丸の南側の辺り一帯にも堀跡や土塁が容易に確認でき、かなりの広さであったことが分かる。
堀と土塁
土塁等