伊勢 大河内城(松阪市)

伊勢国司北畠氏が北朝に対抗し築城、戦国期になり織田軍に攻められる

所在地

三重県松阪市大河内町城山(大河内公民館の北西100mほどの山)
大河内公民館(大河内地区市民センター):大河内町796、電話0598-36-0001

形状

平山城(標高約110m)

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、堀切、石碑、説明板

満足度(10点満点)

7点

訪城日

2008/09/25

歴史等

大河内城は、3代国司北畠満雅が、応永22年(1415)北朝軍に対抗するために築いたもので、弟顕雅を籠城させたという。以後、 顕雅の子孫が居城し、大河内御所を称した。
永禄12年(1569)織田信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司北畠具教は山深い霧山城から下り、 この城を本拠とし、補強して迎撃態勢を固めた。
阿坂城を陥れた織田軍は、ついでその南方にある大河内城を攻撃した。8月末から連日のように猛攻撃をしかけたが、城方はびくともしなかった。
しかし、9月に入ると、兵糧が尽きて、城内から餓死者が出始めた。
そこで、具教は抵抗を断念し、信長の二男信雄を養子にするという条件で和睦した。ところが、やがて具教は信雄に暗殺され、 伊勢国司北畠氏の正系は8代にして絶えた。
天正4年(1576)信雄は南伊勢を統治する拠点を田丸城に移し、 廃城となった。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

大河内城は、曲輪、土塁、石垣、堀切など遺構がよく残り、見応えのある城跡だった。
中でも、二の丸跡と馬場跡の間を入って行くと、正面に見える本丸の切岸は見事だ。
そして、そこをさらに入って行き、右に本丸切岸(一部石垣が残る)、左下に御納戸跡を見ながら、 ゆるくカーブしながら上っている登城道は実に雰囲気がある。
また、本丸と西の丸間の堀切も見事に残り、そこから竪堀となって山裾へと落ちていく姿は怖いくらいだ。
この城跡じゃ、概ね、よく整備され、気持ちよく散策できるが、大手口からの登城道は、夏場は藪でちょっと無理かな。
それにしても、登城前は、ここまで素晴らしい城跡だとは想像していなかったので得をした気分だった。
ただ、ここでも薮蚊に散々やられた(痒い!)。
(2008/09/25登城して)


【大河内城址等案内印刷物】
大河内公民館(市民センター)で、 「大河内城跡の案内や縄張略図」と「周辺歴史探訪」の印刷物が貰えるので、登城前に寄ってみることをお薦めします。

ギャラリー

大河内城縄張略図(大河内公民館配布印刷物より)

大河内城址全景(和歌山街道から撮影)
手前の川は坂内川で、左端に見えるのが西連寺。大河内公民館から西へと橋を渡り、西連寺を右(北) へ曲がると大河内城跡への大きな案内板へと出る。案内板に従って左(西)へと曲がると、登城道(龍蔵庵坂)である。

龍蔵庵坂(二の丸が見えて来る)
案内板のところから少し登ると、坂の上に二の丸の石垣が見えて来る。手前の左切岸上は出丸跡。 前方に見える二の丸石垣や手前の出丸石垣は、最近のものであろう。

二の丸への石畳の坂道と石段
二の丸へは、南側の石畳の坂道と東側石段から登ることが出来る。最初、この石垣や石畳を見た時は、一瞬 「オッ」と思ったが、これら石垣や石畳、石段等々は最近のものであろう。
 

二の丸跡
二の丸跡には神社祠と表忠碑が建っている。

㊧馬場跡、㊨御納戸跡
馬場跡は大変な広さを誇る。馬場跡と御納戸跡は、強烈な藪でとても入っていける状態ではない。
 

本丸の切岸が正面に現れる(左の藪は御納戸跡、右の藪は馬場跡)
二の丸跡と馬場跡の間を入って行くと、正面に見えてくる本丸の切岸は見事だ。

本丸への登城道
さらに入って行くと、右に本丸切岸(一部石垣が残る)、左下に御納戸跡を見ながら、 ゆるくカーブしながら上っている登城道へと出る。この光景は趣きがあり絵になる。

本丸跡
本丸跡には、神社社が建ち、「本丸跡の碑」や「北畠治房 歌碑」 などとともに、「大河内合戦400年記念碑」なるものも立っている。往時は周りを土塁で一部囲まれていたようで、 所々に低い土塁が残っている。

本丸・西の丸間の堀切へと
本丸南側の道(左側急崖)の道を西の丸跡へと進むと、堀切に架かる橋が見えて来る。

堀切
堀切は、幅、深さともに約5mはあろう。右(北)側はまむし谷へと落ち、左(南) 側は竪堀のようになって大崎谷と小崎谷へと落ちていっている。

堀切から山裾へと落ちていく竪堀様の谷
堀切から左(南)側の山裾へは竪堀のようになって大崎谷・小崎谷へと落ちていく様は怖いくらいだ。 北側のますし谷側は鬱蒼と木が生茂り見えない。

西の丸へと
堀切に架かる橋を渡ると、西の丸へと入って行く。右土塁上が西の丸。

西の丸
西の丸跡にも神社社が建っている。西の丸の周りは絶壁になっており、改めて、 この城が要害堅固な城であったことに気が付く。

大手口
大手口側は、あまり整備されていないようであるが、冬場なら充分登って行けそうだったが、 夏場でちょっと腰が引けたが、馬場跡近くまで登って行った。公民館でもらった縄張略図によると、大手口両側に「櫓」とあったので、探したが、 見付からなかった。そして、案の定、薮蚊に散々やられた!
 

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