尾張 蟹江城(蟹江町)

住宅地の真ん中に建つ立派な石碑と説明板

小牧長久手合戦の時の蟹江合戦により落城

所在地

愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城、歴史民俗資料館の南
歴史民俗資料館(産業文化会館内):蟹江町大字今字蟹江浦23、電話0567-95-3812

形状

平城

現状・遺構

現状:市街地
遺構等:井戸、水堀?、石碑、説明板

満足度

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訪城日

2008/09/23

歴史等

永享年間(1429~41)、北条時任が築城した。
天正12年(1584)の小牧長久手の戦いの時、長久手での小競り合いの後、徳川家康・織田信雄軍と秀吉軍の両軍は、 再び睨み合いの持久戦となったが、その間に秀吉は家康・信雄方の加賀野井城(羽島市)、竹ケ島城(羽島市)などをはじめ、尾張・美濃・ 伊勢の諸城を次々と陥れていった。
尾張と伊勢の国境に近い蟹江城は家康・信雄方に属していた。蟹江城は信雄の家臣佐久間正勝の城であったが、 伊勢方面に出兵していて外祖父の前田種利が守っていた。秀吉方の滝川一益は、種利とは従兄弟のよしみから秀吉に臣従をすすめたので、 種利は寝返って、6月16日、一益の兵を城内に入れた。
それを知った家康は、ただちに兵を率いて蟹江に向かった。
折から干潮のため、一益の兵は一部しか城内に入れず、大部分が沖合いの船に浮かんでいた。
家康がこの城を囲むと、秀吉方の九鬼嘉隆が水路応援にかけつけたが、これも干潮のため進めない。そこで、一益は城からの脱出を試みたが、 家康の包囲網が厳しく脱出は不可能であった。
6月19日から大軍による城攻めが始まり、一益は遂に29日に降伏し、廃城となった。これを「蟹江合戦」と呼んでいる。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)より』

現況・登城記・感想等

この辺りは、名古屋への通勤圏であり、当然、城跡も完全に市街地に埋もれてしまい跡形もない。
歴史民俗資料館の前を南へ50mほど進み、突き当りを右(西)へ少し行くと、立派な石碑が立ち、更に、その少し先に本丸井戸が残っている。
また、資料館の裏(西)に水堀跡のような小さな川がある。「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」によると、 「わずかに濠の名残りが認められる」となっているが、この辺りは水郷(海抜0メートル)地帯でもあり、このような川(運河) は網の目のようにあるので、これが水堀跡かどうかは疑問だ。
(2008/09/23訪れて)

【余談】
蟹江というと、中学生時代、県が違うのに、何故か、毎年、 蟹江中学と野球の試合をやったことが懐かしく思い出される。
当然?、完封勝ちをした。ちょっとした自慢話。(失礼)

ギャラリー

本丸井戸
完全に宅地に埋もれてしまった蟹江城であるが、本丸井戸の一つが残っているのは軌跡だ。

水堀?
「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」によると、「わずかに濠の名残りが認められる」となっているが、 この辺りは水郷(海抜0メートル)地帯でもあり、このような川(運河)は網の目のようにあるので、これが水堀跡かどうかは疑問だ。

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