登城口の枡形石垣(2018/11/10撮影)
芦名氏同族の猪苗代氏代々の城、芦名氏を裏切り摺上原合戦に
別名
亀ケ城
所在地
福島県耶麻郡猪苗代町古城跡
形状
平山城
現状・遺構等
現状:亀ケ城址公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、井戸、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2005/03/20
2008/09/30
2018/11/10
歴史等
三浦氏の一族である佐原義連は、奥州征伐の功により源頼朝より会津4郡を与えられた。
その子盛連(芦名氏2代)には6男があり、長男経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称した。経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建久2年(1191)猪苗代城を築いたと伝えられる。
このように、猪苗代氏は芦名氏と同族である。しかし代が下るにつれてたびたび宗家の芦名氏と戦うようになり、やがては芦名氏に臣従したものの、時至れば独立しようとの野心は常に胸中に秘めていた。
芦名氏が人取川合戦、郡山対陣などで次第に伊達政宗の勢力に圧迫されていくのをみて、伊達政宗から誘いを受けた猪苗代城14代目城主盛国は、天正14年(1586)、今こそその機会とばかり宗家の芦名氏を見捨てて伊達方に帰順した。
怒った芦名義広は6月、1万6千余騎を率いて猪苗代に迫った。政宗もまた2万3千余騎を率いて猪苗代城に入った。そして5日、両軍は摺上原で激突した。いわゆる摺上原の合戦である。
この日の朝、西風が吹いて風下にいる伊達軍は苦戦を強いられたが、やがて風が東に変わると形勢は逆転し、芦名勢は総崩れとなった。芦名義広は、わずかな旗本に守られて本拠の黒川城(のちの若松城)に退いたが、政宗の追撃を受けて常陸の佐竹氏を頼って落ち延びた。こうして鎌倉以来の名門芦名氏は滅亡し、その黒川城には伊達政宗が入り、猪苗代城には城代が置かれた。
天正19年(1591)政宗は豊臣秀吉の命により、岩手沢城(のちの岩出山城)に移封され、14代にわたって猪苗代城主であった猪苗代氏も、伊達氏に従い会津を去り、子孫は仙台藩士となった。
黒川城(若松城)には蒲生氏郷が松阪より入封し、猪苗代城は支城として町野左近が2万8千石で配された。蒲生氏以降上杉氏、再度蒲生氏、加藤氏と続くがその間ずっと若松城の支城として存在した。
寛永20年(1643)若松城に保科正之が入城したあとも一国一城令の例外として存城し城代が置かれた。
明治元年(1668)、戊辰戦争時に官軍が迫ってきたため城代高橋氏が城に火をかけ炎上し、そのまま廃城となった。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
猪苗代城は、磐梯山から南東麓へと続く丘陵を利用して築かれた比高差30mほどの平山城で、南北250m、東西200mの規模があります。縄張りは、最高所に土塁に囲まれた本丸を置き、本丸の南側には腰曲輪を備えています。さらに、その一段下周囲(北・西・南)にそれぞれ2段の帯曲輪を置いて主郭を形成しています。そして、丘陵部東側が大手口になり、山裾部分に二の丸、更にその東側に三の丸を配置しています。
現在も、本丸を中心に腰曲輪や帯曲輪などの各曲輪、虎口石垣、横堀、土塁等々、主郭部分の遺構が良好に残り、小規模ながら見応えたっぷりな城跡です。
【登城記】
とにかく今年の雪はすごく、3月末だというのに城山は全く雪の中。
何とか隣に鎮座する稲荷社から、1m近く積もった雪の中を登りました。誰もこんな雪の中を歩く人もいないだろうと思いましたが、 一人分の足跡とスキーのシュプールが2筋だけ残っていましたw(*゚o゚*)w。
ほとんど全てが雪の中で、石垣が所々一部見えるだけといった状態でしたが、ともかくも本丸まで登ったら、本丸からは磐梯山がくっきりと見えました(*^_^*)。
とはいえ、何処に何があるかほとんど分からないし、歩き回るのも不可能でした。今度は雪の無い時に再度来てみたいものですね。
(2005/03/20登城後に)
3年半ぶり、2度目の登城です。前回(2005/3/20)の深い積雪の中の強行軍を思い出しながら見て廻りました。
今回は、山麓の多聞櫓と枡形の石垣をはじめ、各城門跡や石段、本丸近辺の土塁や石垣、本丸を囲む帯曲輪などを見て廻ることができました。
そして、それら全てが美しい造りをしており、この城が小規模ながらも見応え充分な城址であることが分かりました。
前回、唯一印象に残った本丸からの磐梯山も、多少霞んでいたもののよく見え、ラッキー!
(2008/09/30登城して)
今日は長崎時代の仲間・K田君との登城です。
今朝、宇都宮を出発し、裏磐梯方面をドライブ後、到着したのが既にPM2時過ぎです。
今夜は、夕方5時頃から、福島市でN澤君がはじめたちょっとした飲み屋さん(軽食喫茶?)で、K島君と飲む予定があるので、あまりゆっくりはできないので、紅葉狩りを中心とした登城にしました。
猪苗代城の紅葉は、想像以上に素晴らしく、中江も本丸東側土塁をはじめ、井戸門跡周囲や本丸南腰曲輪の紅葉等々は本当に素晴らしかったです。
(2018/11/10登城して)
ギャラリー
【縄張り図】(現地案内板より)
【登城記(今回2008/09/20&前回2005/03/20)】
【大手側から城址を】
(2008/09/20)
前回は雪のため、石垣等は全く見えませんでしたが、今回は多聞櫓台石垣も枡形石垣もよく見えます。
(2005/03/20)
【枡形から登城】
前回は、ここから登城するなんて、とても考えられませんでした。
【石段を登って行く】
枡形から入城すると、この美しい石段へと出ます。木漏れ日の中を登城するのは実に気持ちが良いです。
【本丸東側二段下の石垣】
(2008/09/30)
前回の登城時には、まさかこんな立派な石垣があるとは想像だにしませんでした。
(2005/03/20)
【本丸東側下への石段】
前回は、ここは雪に埋もれていて全く分かりませんでしたが、見事な石段です。ここを登ると正面は土塁で阻まれ、左右へ直角に曲がることになります。右は本丸北東部へ、左は本丸南の土蔵のあった腰曲輪(鈴木啓氏の概略図によると二の郭)への二ノ郭櫓門をくぐって入ることになります。
【二ノ郭櫓門跡】
上写真石段を登り、左へ曲がり登って来ると石垣が残る二ノ郭櫓門跡へと出ます。左側の石垣の奥が本丸です。
【本丸南の土蔵のあった腰曲輪】
この曲輪は、現地案内板では単に土蔵としか記されていませんが、鈴木啓氏の概略図によると二の郭だという。ここも周りを土塁がめぐり、所々に石垣も残っています。また、隅のほうに野口英世像もあります。やはり、猪苗代の英雄といえば、やっぱり野口英世なんですよね。
【本丸南西隅の四脚門石垣】
(今回2008/09/30)
どういう訳か、ここの石垣だけは、前回も全て露出していた。決して日当たりも良さそうではないのに何故だろう?
(前回2005/03/20)
【本丸】
(今回2008/09/30)
前回は、本丸周囲の土塁がこんなにかっこよく、また良好に残っているとは思ってもみなかった。ここから眺める磐梯山は、季節に関わらず素晴らしい!!
(前回2005/03/20)
【本丸を展望台上から撮影】
本丸は、まる~く、その周囲を土塁がめぐっているのがよく分かります。
【本丸西側の二の郭】
この城址は、どこも土塁が良好に残っている。また、その土塁が向こうの方へと延びている光景は美しく絵になる。
【二の郭西下の帯曲輪】 ㊧今回、㊨前回 ~両写真ともクリックにて拡大画面に~
(今回2008/09/30)
(前回2005/03/20)
中央土塁の右側が本丸西側の二ノ郭(2段上の写真)で、左側がその一段下の帯曲輪(上写真)になります。
【硝煙蔵と番小屋のあった南下の曲輪】
この腰曲輪の周囲も土塁が取囲んでいます。
【最も南にある空堀】
前回は、とてもこんな場所まで入っては来れなかった。じつに美しい空堀です!!
【西側下の帯曲輪】
西側下の帯曲輪は庭として綺麗に整備されていますが、往時も庭があったのだろうか?井戸(写真中央やや左に赤い蓋がしてある)も残っています。その後ろの曲がりくねった土塁も実に美しいです。
【城址西の公園から磐梯山を】
城址の西に綺麗に整備された公園があり、往時の水濠跡のようなのもありましたが、果たして・・・。どうなのでしょう?ここからの磐梯山の光景もいいですね。。
【紅葉狩り(2018/11/10)】
( 本丸東側土塁の紅葉)
二ノ郭櫓門石垣脇の紅葉
本丸南側腰曲輪の紅葉
井戸門跡付近の紅葉
四足門跡と紅葉
本丸南側腰曲輪から虎口越しに本丸を(右側の石垣は二ノ郭門石垣)
(左側は四脚門跡)
本丸跡と磐梯山