伊勢 田丸城(玉城町)

南朝方の北畠氏が砦を築いた、後に信長が侵攻し二男信雄を入れる

別名

玉丸城

所在地

三重県度会郡玉城町田丸字城郭

形状

平山城

現状・遺構

遺構:移築城門(富士見門)、曲輪、天守台、石垣、櫓台、土塁、堀、堀切、竪堀、土橋、碑、説明板

満足度(10点満点)

8点

訪城日

2004/02/08

歴史等

田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、 愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。 南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・ 南朝の攻防の舞台になった。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村(現津市美杉町)に多気館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。
天正3年(1575)織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、 本丸には3層の天守閣を建て、田丸城と改称した。天正8年(1580)には、放火によりこの天守閣をはじめ城は全焼し、 信雄は松ヶ島城を築いて移った。
同12年(1584)蒲生氏郷が松ヶ島城主になると、妹婿の玉丸直昌が田丸城を修築し、城主となった。
同18年(1590)氏郷の会津転封につれて直昌も三春城へ転出となり、 その後、田丸城は稲葉氏に与えられたが、大阪の陣後は藤堂高虎の所領となり、元和5年(1619)徳川頼宣が和歌山城主になると田丸はその飛び地となった。
頼宣は家老の久野宗成に田丸を治めさせ、以後久野が代々城代を勤め、明治を迎えた。
城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年(1871)には城内の建物は取り払われた。
昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄附により町有となり、その後残りの城地も町有化し、 町民に開放された。
『「現地説明板」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」より』


【村山龍平】
伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)生まれ。実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。明治維新後、一家を挙げて大阪に移住、 父とともに西洋雑貨商「田丸屋」(後に「玉泉舎」)を営む。明治12年(1879)朝日新聞の創刊に参加。1891年に衆議院議員に当選。 1930年に勅選貴族院議員となった。933年に84歳で死去。娘婿は村山長挙(朝日新聞社長)。

現況・登城記・感想等

小山の頂上に見える田丸城址の石垣は圧巻である。決して大袈裟ではなく、その時は、 まるでテレビでよく見るマチュピチュのような気さえしたというと、さすがに大袈裟か?。
三の丸だった所が玉城中学校になっているが、それ以外は、かなりの遺構が残っている。水堀は各所で埋め立てられてはいるが、外堀・ 内堀が今も結構残っているし、また天守台・本丸・北の丸・二の丸の石垣もよく残っている。山頂部は、 3つの曲輪が本丸を中心に連郭式に配置され、それぞれの曲輪の間には空堀が設けられている。また、本丸の天守台も見事なものである。 (2004/02/08登城して)

ギャラリー

田丸城址遠景
この景色が見えた時には、石垣の素晴らしさに感動した。

本丸の石垣(手前が駐車場になっている)

本丸虎口

天守台(穴蔵がある)
織田(北畠)信雄により、三層の天守が建てられたが、僅か5年で焼失してしまい、その後再建されることは無かった。

本丸から二の丸へ(空堀を土橋で繋がっている)

本丸と二の丸の間の空堀と土橋(二の丸側から)

富士見台

北の丸の石垣

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