磐城 三春城(三春町)

本丸西下の腰曲輪西面の石垣

征夷大将軍田村麻呂の後裔田村氏の城、江戸期は秋田氏が居城

別名

舞鶴城

所在地

福島県田村郡三春町大町
【アクセス】
磐越自動車道「船引三春インター」を下り、国道288号を郡山方面へ向かい、 2km強程進んだ信号を右折して県道300号に入り、900m程進むと、それほど広くは無いが、右折だけ出来る道があるので、 それを右折すると、いきなり、急な坂道になる。その坂道を道なりに登って行くと城址駐車場に着く。

所要時間

今回の見学時間は1時間10分ほどでした。

形状

平山城(標高407.8m、比高約90m)

現状・遺構等

【現状】城址公園
【遺構等】曲輪、石垣、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/04/22

歴史等

田村地方の領主であった田村氏は、征夷大将軍・坂上田村麻呂の後胤である。
永正元年(1504)、田村氏3代田村義顕が築城したと伝えられている。三春城は、義顕、隆顕、清顕と3代が居城した。清顕は南奥羽を代表する戦国の雄である。娘が伊達政宗の室となり、伊達氏と同盟の武将と目され威武振るった。
清顕の死後、家中は乱れたが、老臣らの働きで伊達家に帰属することで所領を全うした。清顕が嗣子なく没しため、甥・宗顕が嗣いだが、秀吉の小田原征伐の時、伊達政宗に制され参加できず、所領を没収された。
天正19年(1591)会津領となり、蒲生氏、上杉氏、再度蒲生氏領となり、会津若松城の支城とされ、それぞれ城代が置かれた。
寛永4年(1627)会津藩主・加藤嘉明の三男・明利が3万石で立藩したが、翌年二本松に移封となり、二本松から松下長綱が入封した。長綱の祖父・之綱(加兵衛)は、遠江頭陀寺(浜松市)の領主をし、当時、日吉丸と称した豊臣秀吉が之綱に仕えたと云われる。
長綱は正保元年(1644)4月、乱心を理由に、所領を召し上げられた。
翌正保2年(1645)、秋田俊季が5万5千石で入城した。秋田氏の先祖は、蝦夷の系譜に連なると云われ、古代「齶田の浦(秋田市土崎) 湊城」を根城にした安東氏で、安部貞任の子高星の後裔と称している。戦国時代の実季の時、秋田を名乗った。
2代盛季のとき、弟・季久に5千石分与し、5万石となる。以後230年在封し、幕末、11代映季のとき戊辰戦争が起こった。奥羽越列藩同盟と新政府の両方に誼を通じ、お家安泰をはかった。
『「別冊歴史読本・激闘!戦国武将330傑(新人物往来社刊)」、「大名の日本地図、中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』

現況・登城記・感想等

三春といえば、やはり「三春の滝桜」である。大変な混雑が見込まれるので、登城前の早朝のうちにと思い、まずは花見。今日は、 あいにくの曇り空のせいか、或いは満開をやや過ぎてしまったせいかイマイチ映えないよう感じで、紅枝垂桜のはずが、薄墨桜のような感じであった。 とはいえ、やっぱり立派な桜であることには変わりなく素晴らしかった(*^_^*)。

三春城址は、三春町役場の北東に聳える独立丘陵に築かれている。現在は、城山公園として整備されているため、いくつかの登山ルートがあり、北西側からの道は中腹に設けられた駐車場まで車で登って行ける。
その駐車場から本丸を目指して登って行くと、矢倉跡の石柱が立っている所へ出るが矢倉跡らしき痕跡は全く確認できない。
しかし、その上の方を見上げると高石垣が見えるが、それは本丸西下の腰曲輪西面の一部残る高石垣である。そこで、強引に崖を登って行くと、更にその左奥上にそれよりも大きな四角く加工された石群があったが、これは腰曲輪の上の本丸の石垣跡であろう。
再び登城道に戻って本丸を目指して登って行くと、本丸虎口への坂道手前に石碑(舞鶴城址と刻まれている)と説明板が立ち、その右手に広い削平地がある。二の丸跡であるが、本丸より3~4mほどの下段になる。尚、当城の二の丸は、ここだけでなく、下の方にも腰曲輪状の二の丸があるが、当城は、中世山城と近世城郭の二つが併存するのでややこしくて、私にはよく分からなかった(/。ヽ)。
さて、坂道の上の虎口から入って本丸跡へ・・・。本丸は、二の丸より更に広く、北側の奥と南側の大広間に区分されている。
奥跡に天守台のような石積みの壇があったので、喜んでその壇の上の石碑を見たら、「秋田家祖先尊霊」とあり、 残念ながら後世のものだった。
尚、二の丸跡の南側の階段状の坂道を降りて行くとちょっとした削平地があり、そこに三の門跡の標柱が立っている。そして、そこから曲がりくねった坂道をさらに降りて行った南西麓にニの門跡があるが、この二の門→揚土門(見損ねた)→三の門を経て二の丸の大門に繋がるルートが近世の三春城の大手筋に当たるようだ。(2007/04/22登城して)

ギャラリー

【三春の滝桜】
登城前にまずは、滝桜を見に ~画面をクリックにて拡大~
三春といえば、やはり「三春の滝桜」である。大変な混雑が見込まれるので、登城前の早朝のうちにと思い、まずは花見。今日は、 あいにくの曇り空のせいか、或いは満開をやや過ぎてしまったせいかイマイチ映えないよう感じで、紅枝垂桜のはずが、薄墨桜のような感じであった。 とはいえ、やっぱり立派な桜であることには変わりなく素晴らしかった(*^_^*)。
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【三春城跡】
秋田氏入封時(江戸時代初期)の城郭想定図と現在の城址公園案内図
三春城址は、三春町役場の北東に聳える独立丘陵に築かれた平山城で、現在は城山公園として整備されているが、比較的往時の形状が良好にのこっている。山頂部の城跡へは、いくつかの登山ルートがあり、私は車で北西側からの道で中腹に設けられた駐車場まで登って行った。
三春城縄張図1

矢倉跡
城山の北西中腹の駐車場から本丸を目指して登って行くと、矢倉跡の石柱が立っている所へ出るが矢倉跡らしき痕跡は全く確認できない。しかし、その上の方を見上げると高石垣が見えるが、それは本丸西下の腰曲輪西面の一部残る高石垣である。
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本丸西下の腰曲輪西面の高石垣
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本丸西面の石垣跡?
腰曲輪西面の一部残る高石垣を観るために崖を登って行くと、更にその左奥上にそれよりも大きな四角く加工された石群があったが、これは腰曲輪の上の本丸の石垣跡であろう。
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本丸手前の二の丸の城址碑と説明板
矢倉跡から登城ルートを登って行くと、三春城の愛称「舞鶴城址」と刻まれた石碑と説明板が立つ所へ出た。この右手には二の丸跡の広い芝生広場があり、左の坂道上が本丸への虎口である。
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【二の丸跡】 
二の丸は本丸の西下にあり、東西約80m、南北約40mほどとかなり広く、近世には本丸の西隅(写真右端)に天守代わりの御三階櫓が建っていたらしいが跡形もない。
尚、当城の城の二の丸は、ここだけでなく、南西麓近くにも腰曲輪状の二の丸があるが、当城は、中世山城と近世城郭の二つが併存するのでややこしくて、私にはよく分からなかった(/。ヽ)。
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御三階櫓跡付近から本丸方面を
本丸との段差は3~4mほどある。正面一段上が本丸跡。写真左側に本丸虎口への坂道と城址碑と説明板が見える。
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大門跡
南側中央には大門(表門)が建っていたとのことで、門の礎石らしきものが残っている。
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【本丸】
本丸は、二の丸より更に広く、東西50m、南北80mあり、北側が奥、南側が大広間と呼ばれていたようだ。
本丸虎口
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奥跡
本丸北西部の虎口から入ったところは奥跡で、左奥に天守台かもと思われるような石積みの壇が。
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「秋田家祖先尊霊」の碑
壇の上の石碑を見たら「秋田家祖先尊霊」とあり、 残念ながら後世のものだった。
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大広間跡から本丸跡全体を
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【大手筋跡を下る】
二の丸南側の三の門への坂道
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三の門跡
二の丸跡の南側の階段状の坂道を降りて行くとちょっとした削平地があり、そこに三の門跡が。
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ニの門跡
三の門跡から曲がりくねった坂道をさらに降りて行った南西麓にニの門跡があるが、この二の門→揚土門(見損ねた)→三の門を経て二の丸の大門に繋がるルートが近世の三春城の大手筋に当たるようだ。
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