復元された箕輪門を
中世の畠山氏の城と近世の丹羽氏の城が2つ存在する城址
別名
霞ケ城、白旗城
所在地
福島県二本松市郭内3丁目
形状
平山城(標高345m、比高120m)
現状・遺構等
現状:霞ケ城公園
遺構等:復元門(箕輪門)、曲輪、土塁、空堀、搦手門石垣・石垣、復元石垣、井戸、碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2007/04/22
2008/11/26
歴史等
二本松城は、同じ場所に、中世と近世の城郭が、2つ存在する珍しい城址である。
一つは、標高345mの白旗山の山頂にある、南北朝時代における奥州探題畠山氏の古城であり、もう一つは、山麓にある、藩政時代における丹羽氏10万石の城址である。
山頂の古城は、応永21年(1414)畠山満泰によって築かれたと云われるが、この畠山氏は南北朝の正平元年(1346)、畠山高国が奥州探題として、この地に下向したのに始まる。築城以来、畠山氏は奥州探題として勢威四隣を圧したが、12代義継の時に、伊達政宗の父輝宗と刺し違える有名な「*粟ノ須の変事」が突発し、政宗と抗争した結果、天正14年(1586)落城し、鎌倉以来の名門畠山氏も滅亡した。
畠山氏滅亡後は、伊達領として城代が置かれた。
天正18年(1590)小田原の役の後、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が去ると、代わって会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、仙道(福島県中通り)警備の任を与えられた。二本松城には、石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めた。
その後徳川時代も、会津領として、上杉氏・蒲生氏・加藤氏の管理下で城代がおかれた。
寛永4年(1627)松下重綱が、下野烏山から5万石で入封し立藩した。重綱は、豊臣秀吉が日吉丸時代に仕えたといわれる松下之綱(加兵衛)の子である。
翌年、重綱の子長綱が三春へ転封となり、代わって三春の加藤明利(会津藩主加藤嘉明の三男)が入れ替わり3万石で入封した。しかし、寛永20年(1643)、本家の加藤明成の改易に伴い、明利も除封された。
そのあとへ、白河より丹羽光重が10万石で入封し、丹羽氏が12代220年余で明治を迎えた。ちなみに、丹羽光秀の祖父は、織田信長の譜代の家臣・丹羽長秀である。
戊辰戦争においては、奥羽越列藩同盟に参加。殺到する薩長両藩を主軸とする官軍に抗戦を挑み、城内・家中屋敷の全てを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城した。この時、13歳から17歳までの少年62名が出陣し、城内への要衝・大壇口では木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦い、16名が戦死した。
【粟ノ須の変事】
畠山義継は、伊達氏と芦名氏の間を、従う如く転変する一方で、小浜城の大内定綱と婚姻を通じ結ぶ。やがて小浜城は政宗に攻められ、義継は芦名氏と共に、定綱を助けて戦った。しかし定綱は破れ、二本松を経て会津へと走った。義継も政宗には勝てぬと感じ、政宗の父輝宗の斡旋で投降した。
義継はその礼と称し、輝宗の陣営に参上した。輝宗が玄関まで見送ると、義継は突然その胸を摑み、刀を突きつけた。伊達家の家臣は慌てたが、輝宗は畠山の家臣に囲まれており手が出ず、連れ去られた。政宗は、異変の急報を受けて、父輝宗のあとを追う。義継らは阿武隈河畔に達しており、対岸は二本松領である。
小説や劇に、この場面がよく描かれ、状況の解釈は分かれる。ともあれ川を渡らせてしまえば、取り返しがつかない。政宗は義継を銃撃させて斃し、輝宗はまた畠山勢に殺される。
『「日本100の城(日本交通公社刊)」、「大名の日本地図、中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
城址近くに着いたら、いきなり、山頂に本丸の石垣が見えた時には感激した。今まで、石垣が素晴らしい山城には、備中松山城や高取城、 岡城等々多く出会っている。また、山麓から石垣が見える城にも、竹田城、 田丸城など、素晴らしい城にも出会った。しかし、それらは小曲輪毎の段々の石垣が組み合わさっていたり、石垣の一部だけが見えるものであった。勿論、それはそれで、非常に素晴らしく、感動ものであり、今でも私は、竹田城こそが、山城の最高傑作だと思っている。
しかし、山頂に、一つの曲輪で、これだけ大規模な石垣の全容が見える城址は初めてであり、非常に印象深かった。この本丸の石垣は、発掘調査の結果、慶長期の蒲生氏郷による「穴太積み様式」、加藤明利城主の「元和・寛永期の様式」、「丹羽氏の江戸時代後半期」の3つの時代の石垣が確認されたそうである。この本丸石垣はかなり高く、しかも傾斜も急で、なかなか見応えがあり、沖縄の勝連城を思い起こした。
本丸からの眺望は素晴らしい。今日は残念ながら靄っていて、眼下の二本松の町並み等々は見えるが、雪化粧の安達太良山が見えるはずが、雪だけが微かに分かるだけであった。
また、本丸南面下には、蒲生氏郷時代の大石垣が残っている。この大石垣の高さは約13m、幅は天端部で約、基底部で約15mもあるそうで、その上に見える本丸の真新しく見える白い復元石垣と対照の妙がある。氏郷ファンの私には、ここが一番の見所であった。
山麓の近世二本松城は、正門(箕輪門)、二重櫓、石垣、城壁等が復元されている。その前には二本松少年隊の像があり、一般的には、そこから箕輪門を背景に見る二本松城が一番のビューポイントかもしれない。そして、箕輪門を潜り抜けて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る枡形虎口の石垣と、その石垣上に植えられた二本松ならぬ四本の赤松の古木も見事である。
また近世二本松城は、花見の名所でもあり、満開の桜が綺麗であった。
(2007/04/22登城して)
ギャラリー
二本松城址の図
【山上の中世二本松城】
中世二本松城址の石垣
城址近くに着いたら、いきなり、山頂に本丸の大規模な石垣が見えた時には感激した。
本丸平面図(現地説明板より)
本丸の石垣(手前は東櫓台、右奥は天守台)
この本丸の石垣は、発掘調査の結果、慶長期の蒲生氏郷による「穴太積み様式」、加藤明利城主の「元和・寛永期の様式」、「丹羽氏の江戸時代後半期」の3つの時代の石垣が確認されたそうである。
本丸の石垣(真上右の石垣は東櫓台)
この本丸石垣は高い上、急傾斜で、頭上にのしかかってくるような迫力があります。
本丸西面の石垣
本丸西側に建つ霞ケ城址の碑
この城址碑は、昭和28年の施工された本丸左側石垣修復を記念して、畠山氏末裔の二本松氏により建立されたものだそうである。
本丸枡形への石段
本丸枡形虎口
本丸(西櫓台から撮影)
左奥の石垣が天守台、右奥が東櫓台、左手前は西櫓台です。東櫓台と天守台、櫓台と西櫓台の間には土塁が設けられています。
天守台
天守台の手前には、丹羽左衛門(城代)と安部井又之丞(勘定奉行)の自刃の碑が建てられています。戊辰戦争による落城に際して、共に自刃(割腹)した両人の供養碑です。
東櫓台
西櫓台
天守台からの眺望
本丸からの眺望は素晴らしい。今日は残念ながら曇り空で、雪化粧の安達太良山が見えるはずが、雪だけが微かに分かるだけであった。写真では全く分からない。
本丸南面下の大石垣 ~クリックにて拡大画面に~
本丸南面下には、蒲生氏郷時代の大石垣が残っている。この大石垣の高さは約13m、幅は天端部で約15m、基底部で約21mもあるそうで、その上に見える本丸の真新しく見える白い復元石垣と対照の妙がある。
搦手門跡
搦手門跡から本丸を見上げる
搦手門の礎石
新城館跡
新城館跡には、二本松少年隊の顕彰碑や少年隊が戦う銅版画などが。
【山麓の近世二本松城】
二本松少年隊の像と復元箕輪門(二重櫓)
正門(箕輪門)、二重櫓、石垣、城壁等が復元されている。その前には二本松少年隊の像があり、一般的には、そこから箕輪門を背景に見る二本松城が一番のビューポイントかもしれない。
箕輪門(城外から)
箕輪門(城内から)
三の丸跡への虎口
三の丸への虎口の枡形
四本松
箕輪門を潜り抜けて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る枡形虎口の石垣と、その石垣上に植えられた二本松ならぬ四本の赤松の古木も見事である。
三の丸跡
三の丸の桜
近世二本松城は、花見の名所でもあり、満開の桜が綺麗であった。