復元された三重櫓
仮想敵の伊達・上杉・佐竹氏に備えて築城名手丹羽長重が造った城
別名
白河城
所在地
白河市郭内
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 城山公園
【遺構等】 元三重櫓、復元前御門、模擬冠木門、曲輪、石垣、水堀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/07/28
歴史等
小峰城は白河城とも呼ばれ、南北朝時代の興国年間(1340~46)に、結城親朝によって、阿武隈川の南岸に面した小峰ケ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)に築かれたのははじまりである。以後、白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城であったが、永正年間(1504~20)頃には白川結城氏の本城となった。
天正18年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置により白川結城氏が改易となって以後は、会津藩の城代が置かれ、蒲生氏、次いで上杉氏の支配下に置かれた。
その後、寛永4年(1627)、棚倉から丹羽長重が10万石で入封し、幕命により寛永6年(1629)から同9年(1632)にかけて城を大改修した。仮想敵は、伊達、上杉、佐竹といった奥羽地方の外様大名で、そのため南側よりも侵入予想路にあたる北側が重点的に防備された。これまで城のすぐ北側を流れていた阿武隈川をさらに北へ回して外堀となし(従来の川は本丸すぐ北側の内堀にした)、城域を広げて二の丸、三の丸を設けたうえ、城郭の最高所に本丸を構築した。
長重の死後、子の光重は寛永20年(1643)二本松へ転封され、その後は榊原氏、本多氏、(奥平)松平氏、(越前松平分家の)松平氏、(久松)松平氏とめまぐるしく城主が変った。その中で、幕府老中となり、寛政の改革で有名な、(久松)松平氏の3代定信がいる。
(久松)松平氏4代定永が旧領伊勢桑名へ戻ったあとには、 武蔵忍より阿部正権が入封し、以後阿部氏が8代44年在封した。
阿部氏のあとは、一時幕領となり、その後まもなく二本松藩丹羽氏の管轄とされ、戊辰戦争を迎え、小峰城は攻防の戦場となった。北側を重点的に防備された小峰城は、南方より攻撃してきた新政府軍により、簡単に攻略されたのである。一方、北方から攻めた奥羽列藩同盟軍は数度も総攻撃をかけながら城を抜くことは出来なかったという。
平成3年三重櫓(天守閣)、同6年には前御門が当時の史料にそって、忠実に木造再現された。
『「現地説明板」、「日本100の城(日本交通社刊)」、「大名の地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」参照』
現況・登城記・感想等
小峰城の一番の特徴は「石垣」であろう。全長3kmにもわたる壮大な石垣群は高石垣とまでは云えないものの、帯曲輪の石垣と、その上の本丸の石垣を合わせるとかなりの高さになる。また、近世城郭築城以来何度も崩れることがあったらしく、打ち込みハギ・切込みハギ等々、時代時代によるあらゆる種類の石垣を見ることが出来る。
中でも面白いのは、本丸下の丸く積まれた石垣である。これは、強度のためというよりも「鷹の目」を表しているそうで、装飾的なものだそうであり、4ヶ所ほどにあった。
さすが安土城をはじめとして、代々、いくつもの築城にたずさわってきた丹羽氏築城の城だけのことはある。
一方、その石垣の上に聳える復元三階櫓(天守)と前御門も、城の前の非常に広い二の丸から眺めても、北側の内堀の外から見ても、なかなか絵になる。
(2007/07/29登城して)
ギャラリー
二の丸から本丸を望む ~画面をクリックにて拡大~
二の丸跡は、今でも非常に広く、正面に壮大な石垣と、その上に壮麗な三階櫓(天守)が。
清水門跡
現在は冠木門が建っているが、ここは本丸下の護り門で、往時は二層の櫓門が建っていた。
清水門の名前の由来は、門奥右手にこんこんと湧いて出る井戸があったことからとか。今でも水が湧き出ているそうであるが、危険なので井戸には厳重に蓋がされていた。
清水門手前西側の水堀と石垣と月見櫓台
写真の石垣で、斜めになった境目の右側4分の1は打ち込みハギで、左側は切込みハギになっているが、これは江戸時代に左側が崩れた為、当時修築したものである。
清水門跡正面の本丸石垣
右上の方の石垣が丸く積まれている。これは「鷹の目」を表しているそうである。この城は、築城技術の発達した後期のものであり、しかも築城名手の丹羽氏によるものであり、こんな所にまで手が込んでいる。
桜御門(本丸上から)
本丸南中央にある裏門である。女性が通る門であった。
本丸から二の丸と眺望 ~クリックにて拡大画面に~
二の丸の広さも相当なものであるが、その奥が三の丸であり、大手門の位置(ピンクのビルの辺り)を見れば、その広さが実感できる。
本丸北西隅の雪見櫓跡から阿武隈川方面 ~クリックにて拡大画面に~
すぐ下は帯曲輪跡で、現在はバラ園になっている。阿武隈川は帯曲輪のすぐ下を流れていたが、北へ回し、従来の場所が内堀となり阿武隈川は外堀とした。
一階の通し柱(杉材)の弾痕
慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いでの最大の激戦地は老杉の生える稲荷山であった。その為数多くの鉛玉が老杉に打ち込まれた。三階櫓復元にあたり、この杉を使用し、製材したところ、この鉛玉の多くが検出された。
蛇頭堀(本丸北西側)
もとは阿武隈川であったが、流れをさらに北に回した。その結果、ここが内堀として残された。今でも満々と水を湛えているが、その形が蛇の頭に似ていることから蛇頭堀と呼ばれる。
本丸北の水堀の外側から見る三階櫓(天守閣)
地元の人によると、ここから見る天守閣が、水堀にも天守が映り、最も素晴らしいというが、さざ波のためイマイチでした(/。ヽ)。
搦め手枡形2
本丸の外、北東部にあるが、この搦め手も含めて、本丸東側にも石垣が多く残っているが、ここまではなかなか手が回らないらしく、多くが木々の中に埋もれていた。