伊勢 桑名城(桑名市)

満々と水を湛えた吉ノ丸堀(左側は本丸で左手前に神戸櫓跡)

関ヶ原合戦後、本多忠勝が入封、幕末の藩主定敬は会津藩主容保の弟

別名

旭城、扇城

所在地

三重県桑名市吉之丸、九華公園

形状

平城(海城)

現状・遺構等

【現状】九華公園
【遺構等】水堀、石垣、曲輪、天守台(縮小再建)、蟠龍櫓(外観復元)、櫓台、移築城門(了順寺)、移築三の丸御殿(浄泉坊)、石碑、説明板
了順寺:桑名市大福222、電話059-422-5814
浄泉坊:三重郡朝日町大字小向955、電話059-377-2406

満足度

★★★☆☆

訪城日

2003/05/03
2010/01/25

歴史等

桑名の地に城が築かれたのは、文治2年(1186)鎌倉幕府の命により、伊勢平氏の桑名行綱が当地を支配したことに始まるといわれている。
天正2年(1574)織田信長が伊勢を平定すると、信長の重臣・滝川一益の所領となり、一益は長島城を修築して入り、桑名の緒城は家臣に守らせた。
同19年(1591)一柳直盛が入封し、この時初めて桑名城を築いたという。
文禄4年(1595)、氏家行広が城主となったが、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で西軍に属し、敗北したため無血開城。
慶長6年(1601)、本多忠勝が上総大多喜から10万石で移ってきた。忠勝は入封すると、ただちに巨大な築城の工事を起し10年近くを要して慶長15年(1610)にほぼ完成した。櫓数51、多聞46、水門3ヶ所という立派な城で、雑然とした船渡し場だった町を城下町に立て直した。桑名の町並みはこの時ほぼできあがったといわれている。
城のほぼ完成した慶長15年(1610)に忠勝は没し、子忠政が継いで城主となったが、元和3年(1617)忠政は姫路15万石に転封となった。
その後、久松松平氏、次いで奥平松平氏が入り、7代113年在城した。
文政6年(1823)、久松松平氏が再封し、以後、久松松平氏4代の居城として明治維新を迎えた。桑名藩は慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に、藩主定敬は鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に江戸へ逃げ延び、桑名城は藩主不在となった。城内は恭順か抗戦かの激論となったが、最終的に討幕軍に恭順し、桑名城は無血開城したが、討幕軍はこの際に桑名城を焼き払い開城の証とした。この時、三層の辰巳櫓なども焼失した。
尚、寛永12年(1635)に美濃大垣から入封した松平定綱の時に築かれた天守閣は四重六階の勇壮なものであったが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されなかった。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)参照』

現況・登城記・感想等

桑名城は、最後の城主・松平定敬(会津松平容保の弟)が佐幕派だったため、明治維新後に城はいち早く破却されてしまったが、現地案内板の正保年間(1644~1648)の絵図によると、本丸を中心に幅の広い水堀が幾重にも張られ、また多くの高石垣が組まれた壮大な水城であったのが伺える。
現在、城址は九華公園として綺麗に整備され市民の憩いの場となっている。
現在も、幅の広い水堀が幾重にも残り、往時の水城の様子が伺えるものの、かなり改変されてしまっているようである。
しかも、廃城後に四日市港湾整備のために石がほとんど運び去られてしまったために高石垣をはじめ、石垣はほとんど残っていない。
ということで、遺構としては、それらの水堀や本丸跡の神戸櫓跡、辰巳櫓跡と規模を縮小して再現されたという天守台、そして外堀や海沿いなどに僅かに石垣が残っているだけではある。
とはいえ、幾重にも張られた満々と水を湛える幅の広い水堀が往時の海(実際は揖斐川河口)に浮かぶ綺麗な水城を偲ばせてくれる。
尚、了順寺(桑名市大福)の山門が城門を移築したものとされ、現存する。また、浄泉坊(三重郡朝日町)の書院は桑名城の三の丸御殿を移築したものと伝えられている。
(2003/05/03、2010/01/25登城して)

ギャラリー

九華公園付近の絵図(現地案内板より)
IMG_3480

正保年間(1644~1648)の桑名城の図 ~現地案内板より~
正保年間(1644~1648)の絵図によると、本丸を中心に幅の広い水堀が幾重にも張られ、また多くの高石垣が組まれた壮大な水城であったのが伺える。
IMG_3468

九華公園案内図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
現在、桑名城址は大部分が九華公園として綺麗に整備され市民の憩いの場となっている。
九華公園案内図

本多平八郎忠勝の銅像
IMG_3442

三の丸跡(吉之丸コミュニティパーク)
本多忠勝像の背後(北側)には三の丸跡に造られた、だだっ広い芝生広場(吉之丸コミュニティパーク)がある。
IMG_3444

蟠龍櫓(外観復元)
そのだだっ広い芝生広場(三の丸跡・吉之丸コミュニティパーク)を北進し揖斐川へ出ると蟠龍櫓が現れる。七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓は、かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルであり、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで、天に昇る前の龍であり、蟠龍櫓も航海の守護神として据えられたものである。
平成15年に揖斐川河口の七里の渡し渡船場近くの三の丸跡に外観復元された。

IMG_3446

七里の渡し(左奥に蟠龍櫓)
蟠龍櫓から左へと西進すると七里の渡しの跡へ出る。
IMG_3483

揖斐川と蟠龍櫓
当然ですが、七里の渡しは揖斐川(左側)へとつながっている。
IMG_3485

外堀&石垣
七里の渡し跡から陸側へと外堀に繋がっており、今も多くの舟が停まっていた。ここの石垣は、往時のものであり、県指定史跡になっている。
IMG_3489

三の丸堀
蟠龍櫓と七里の渡しをみたあとは、三の丸堀に沿って公園(城跡)の中心部へ向かう。三の丸堀も、他の多くの堀と同様、満々と水が湛えているが、勿論、石垣は往時のものではない。
IMG_3449

西側南端部の二の丸堀
三の丸堀の南の方は西側の二の丸堀へと繋がっている。
DSC02455

吉の丸堀と神戸櫓
堀の左側が本丸跡で左手前は神戸櫓跡。
DSC02454

吉の丸堀
堀の左側は本丸跡で右側は二の丸跡
DSC02453

二の丸跡(神戸櫓から吉の丸堀越しに撮影)
IMG_3470

吉の丸堀に架かる朱色の橋と東屋
二の丸跡と本丸跡の間の吉の丸堀には朱色の橋が架けられ、橋の中央部には東屋が建てられている。尚、橋の左奥には辰巳櫓跡があり、さらに左方面には神戸櫓跡も見える。
IMG_3457

【本丸跡】
東西約60間(約108m)、南北約32間(約58m)のほぼ長方形で、四方は堀で囲まれ、西北と西南とに入り口があった。東北角に天守閣、西北、東南(辰巳)に三層櫓があった。西南角には伊勢神戸城から移した三層櫓があったが、幕末には櫓台のみとなっていた。本丸には鎮国守国神社が祀られていたが、他には主な建物はなかった。


辰巳櫓跡

本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄17年(1701)に天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後は辰巳櫓が桑名城のシンボル的な存在であった。このため、明治維新の時に、降伏・落城のしるしとして新政府軍に焼き払われた。
IMG_3461

辰巳櫓上の大砲
現在、櫓台の上に大砲が置かれているが、由来等は不明とのことである。
IMG_3462

神戸櫓跡
戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し、東城は廃されたものと思われる。
文禄の頃(1592~1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時に
神戸城の天守閣を移したといわれている。江戸時代、本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の三層櫓の天守閣は櫓としてそのまま残され神戸櫓と呼ばれた。
IMG_3453

IMG_3450

本丸の入口にある城址碑
本丸の西側の堀に架かる九華橋を渡って本丸跡に入ると城址碑等々の石碑がある。
IMG_3466

鎮国守国神社
本丸北西部に鎮座している。天明14年(1784)奥州磐城白河藩主松平定信が白河小峰城内に先祖の松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりである。
松平定綱は桑名藩の5代藩主で、本多忠勝が築いた城をさらに「海道の名城」とうたわれるまでに修築し、さらに新田開発や産業振興を図った人で桑名藩祖と呼ばれていいる。文政6年(1823)定信の嫡男定永の桑名への移封にともない当地に移った。この時定信も守国公として当社に祀られた。
松平定信は白河藩主のあと江戸幕府の老中首座を務め、寛政の改革を実行したことで有名である。定永移封の時には定信は高齢であり、桑名へは来往しなかった。
IMG_3465

天守閣跡
本丸の東北角(護国神社の東側)には天守台が残っている。
初代城主本多忠勝が築いた。四層六階で、一層目は8間×6間で石垣を含めた高さは約17mあった。
しかし、元禄14年(1701)の大火で町内・城内の大半が消失し、天守閣も失われ、以後再建されなかった。
尚、現在の天守台の石組みは当時のものではなく、かなり縮小した規模で再現してあるそうだ。
天守台上に立つ剱型青銅製の「戊辰殉難招魂碑」は明治20年(1887)に建立されたもので、最後の桑名藩主・松平定敬が戊辰戦争で亡くなった桑名藩士を弔う銘文が刻まれたものである。
IMG_3475

IMG_3476 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

タナカ キヨシ(2012/02/10)

1868年激しい攻撃を受け とありますが桑名城は戦わずして
無血開城しています。再度確認願います。

タクジロー(2012/02/10)

タナカキヨシさま
ご訪問とコメントありがとうございます。
藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり、上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城となったが、明治政府軍はこの際に桑名城を焼き払い開城の証としたと聞いてます。
微妙なところですが、確かに、表現を変えたほうが良いかもしれませんね。、

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント