東金酒井氏5代の居城
別名
鴇ケ根城、鴇ケ峰城
所在地
東金市東金字谷(本漸寺背後の御殿山)
本漸寺:東金市東金1423、電話0475-52-2449
【登城口】
本漸寺と東金高校 の間の道から登ることができる。
形状
平山城(標高74m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2009/03/01
歴史等
東金城は、酒井定隆によって大永元年(1521)に築かれたと云われるが、15世紀半ばの「享徳の大乱」の最中、
千葉宗家の内紛を受けて美濃国より東常縁(とうのつねより)が下向し、家臣の浜春利を当城(鴇ケ根城・鴇ケ峰城)に入部させ、
その後酒井氏が改修したという説もある。
浜氏は現千葉市浜野を本拠とした土岐氏の一族で酒井氏の祖である可能性もあるという。
酒井定隆は、当初、中野城(千葉市若葉区)を本拠としたが、長享2年(1488)に土気城
(千葉市緑区)に移り、永正6年(1509)田間城(東金市)を経て、当城に移ったという。これ以後「土気・東金の両酒井」
と称されるようになった。
16世紀後半は後北条氏に属し、一時は里見方についた土気酒井氏と争うこともあったが、5代にわたって当城に居城した。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原の役で後北条氏側に与したため、浅野長政によって摂取された。
小田原の役の後、江戸に入封した徳川家康は、慶長18年(1603)東金城山麓(現東金高校敷地)に鷹狩場宿泊施設として東金御殿を築いた。
『「現地説明板」、「房総の城郭・千葉城郭研究会編」他参照』
現況・登城記・感想等
本漸寺背後の標高74mの御殿山が東金城址である。
道は比較的整備されてはいるものの、先日来の雨でグチャグチャ!おまけに道の両側は、冬にも関わらず強烈な藪のため、
曲輪跡らしき削平地や空堀跡はそれとなく確認できるものの、縄張図と照らし合わせても判然とせず、
不完全燃焼のまま下城することとなってしまった。
(2009/03/01登城して)
ギャラリー
㊧説明板、㊨城址碑
㊧本漸寺の土塁に「東金城址(左側)」と「東金御殿(右側)」
の説明板が設置されている。㊨東金高校と本漸寺の間の登城道を行くと右側に高さ3mほどの「東金城趾碑」が立っている。
説明が刻まれているが、かなり古いもののようで風化され、おまけに漢文のようで、とても読みきれない。
本漸寺と背後の御殿山(東金城址)
東金城址の御殿山は本漸寺の背後を取り囲んでいる。さらには、後方左(東金高校背後)まで延びている。
さすが東金酒井氏の本拠の城らしく、かなり広い城域を呈している。
登城口
城址入口には門があり、御殿山の碑も立っている。
いざ登城
門を入って行くと、先日来の雨で道がグチャグチャ!端の方を何とか通り山の中へ。
登城道の石段
登城道を登ると、すぐ二股に道が分かれるが、まずは一郭方面へと右へ進むと、急な石段へ出る。
土がかなり水で流れてしまっておりかなり歩きにくい。
四郭への石段
石段下は往時は空堀で断ち切られていたのであろう。両側には空堀が確認できる。
左側の空堀
右側の空堀
四郭跡
四郭はかなり狭い曲輪で「御殿山神社奥院」の石柱が立っている。すぐ奥にも堀切が。
四郭奥(北)の堀切、 ㊧左(西)側、㊨右(東)側
堀底へ降りて撮ったもの。堀の深さは3mほどであるが濡れてグチャグチャなため降りるのは滑って大変だった。
四郭奥(北)の堀切を振り返って撮影
三郭?
四郭までは道も整備されているが、堀切を渡った三郭辺りからは道が微妙!?
削平地にはなっているようだが笹薮に覆われて判然としない。
一郭
三郭を北西へ進むと、右側に僅かに開けた所があったが、この辺りが一郭だろうか?
縄張図によると三郭と一郭は段差があるらしいが、全く気が付かなかった。
二郭
一郭から南西方面へ進むと、相変わらず道の両側は笹薮!削平地にはなっているらしい。多分二郭であろう。
一郭と二郭の境目も全く分からない!
トーチカ跡?
二郭南端部には第二次大戦時に築かれたコンクリート製のトーチカ(見張り台)があるということであったが、
崩れてしまったのか大きな穴があいてしまい、周りにコンクリートが散見された。
これは何?井戸?
トーチカの少し奥には井戸のようなコンクリート製のものが・・・。
これも第二次大戦の時に造られたものだろうけど、何だろう?
堀切
上写真の奥は強烈な藪になっていたが深い堀切のようだった。降りて行く道跡らしきものがあったが、
あまりの足元の悪さで降りていくのは諦めた!