本丸跡の城址標柱と説明板
房総の雄・里見氏発祥の地
所在地
群馬県高崎市下里見町
【行き方】
国道406号と県道137号が交差する「下里見」信号のすぐ西の路地を南へ入り、道なりに200m程登って行くと右手に「城山稲荷神社」
がある。城跡はこの神社の西。神社手前の大鳥居近辺に駐車スペースあり。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:雑木林他
遺構等:曲輪、土塁、堀切、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2009/02/08
歴史等
里見城は、新田義重の三男義俊が新田氏の所領である里見郷に居を定め築城したものと伝えている。
義重は所領の里見郷を義俊に譲りこの城を所領の西の護りの拠点にしたといわれている。
以来、義俊は里見という地名を氏として「里見義俊」と称した。里見氏10代家基が嘉吉元年(1441)結城合戦で戦死し、
その子義実が房総に転出するまでの290年あまり里見氏はこの城に依拠した。
永禄の頃(1558~69)には、里見城主は里見河内で、河内は房総里見氏の裔と伝えられている。
河内は長野業政に随っていたが、永禄4年(1561)に業政が没し、永禄9年(1566、永禄6年説もある)武田勢の侵攻により落城し、
以後廃城になった。
南北朝時代に南朝の雄として活躍した新田義貞は幼少の頃、里見の地で育ち、
長じて新田宗家の養子となったという説が里見地域では定着している。義貞は幼名を里見小五郎と称していたといい、
その幼名に因んだ小五郎谷戸、小五郎橋、医者が清水、安養寺などという呼称が残されている。
『「現地説明板」、「群馬の古城・山崎一著(あかぎ出版刊)」他より』
現況・登城記・感想等
里見氏発祥の地ということで期待して登城したが、館に毛の生えた程度の城郭(失礼)でちょっとガッカリした。
とは云え、本丸と外曲輪間には堀切がはっきりと残り、本丸周囲の土塁も東西と南の一部に残っていたのは嬉しい。
また、本丸北西面と南西から南面にかけては腰曲輪も残っている。
(2009/02/08登城して)
ギャラリー
城山稲荷の大鳥居
大鳥居のすぐ傍に4~5台ほどの駐車スペースがある。城跡そのものは、
写真奥に見える稲荷社背後の墓地の奥になる。
本丸と外曲輪間の堀切
堀底から土塁上までは5mほどもあり、結構立派である。左上が本丸、右上が外曲輪(古城と云うらしい)だが、
外曲輪は墓と強烈な藪だらけの雑木林でとても入ってはいけない。堀底の墓は城と関係ある人のかと思って、見てみたが関係なさそう。
ちょっと風情が感じられないな~!
本丸虎口
本丸虎口は東南部にあり土橋が付いているが、両側の堀はかなり埋まり、また土塁もかなり削られており、
ただの道のようだ。
本丸
本丸は東西100m、南北70mほどの方形で、北面は里見川によって形成された崖に守られ、
東南西の三方向は高さ2.5mほどの土居が巡らされていたようだが、南の土塁はかなり低くなってしまっている。
本丸西側の土塁
本丸南下の腰曲輪
本丸北西面と南西から南面にかけては腰曲輪も残り梅林になっている。