上野 毒島城(伊勢崎市)

虎口前に建つ城址標柱と説明板

沼に浮かぶ城、大蛇伝説の城

所在地

伊勢崎市赤堀今井町2丁目
【行き方】
国道50号線の「今井信号」を北上し、県道102号線が左へ大きくカーブし前橋市に入る手前左側に入って行くと、 広い田んぼの真ん中に浮かぶように平べったい丘陵が見える。それが毒島城址である。

形状

丘城

現状・遺構等

現状:雑木林・畑地
遺構等:曲輪、切岸、堀?、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2009/02/08

歴史等

毒島(ぶすじま)城は、築城者や築城年代は定かではないが、永禄年間(1558~69)には毒島勘解由長綱が在城した。長綱は、 桐生氏に属し、後に「広沢の寄居(桐生市広沢)」に移った。
この城には、「城主青木入道が三浦謙庭に攻められたとき、城の周りの沼には1匹の大蛇が住んでいて寄せ手を苦しめた。 そこで寄せ手は7つの石臼で毒を作り沼に投げたため、大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちた。」という伝説が残っている。
『「群馬の古城・山崎一著(あかぎ出版刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

毒島(ぶすじま)城は、周囲を水田に囲まれた平べったい丘の上に築かれた城である。
往時は、沼に囲まれた島であったようだが、今も水田の中に浮かぶ丘の姿は往時の情景を窺い知ることができる。低い丘ではあるが、 きっと攻め辛い城であったことだろう。
縄張りは、北西~東南150m、幅100mの楕円形で、主郭とそれを取り囲む腰曲輪から成り、虎口は南西面中央の坂虎口1ヶ所のみである。 この虎口の所に標柱と説明板が設置されている。
(2009/02/08登城して)

【余談】
「毒島」と言えば、私が小学校の頃に、当時のプロ野球球団・東映フライヤーズに居たシュアな打撃の選手を思い出す。
初めて、その姓を見た時に「どくじま」とは凄い姓だなと驚いたものだった。尤も、すぐに「ぶすじま」だと分かりホッ?としたものだが( 「ぶすじま」でも凄いけど!)・・・(苦笑)。
この辺りは、今でも「毒島」姓が多いそうだが、調べてみたら、彼は桐生高校の出身らしいので、多分この辺りの人なのだろう。
尚、「ぶす」とは、「トリカブトの根をつぶして作った毒のことだそうで、アイヌの人はこれを狩猟用に用い、「ぶし」と読んでいたそうである。
城と全く関係ない話でスミマセン。

ギャラリー

全景
往時は沼に孤立する島であったようだが、今も田んぼの中に浮かぶ姿は、往時の情景を窺い知ることができる。 写真右の白いガードレールのところが道で、突き当たりが、表紙写真にある唯一の坂虎口で、その手前に標柱と説明板が設置されている。

虎口を登ってすぐの腰曲輪
虎口を上って行くと本丸下に腰曲輪が見える。左側上が本丸。どちらも現在は畑になっている。

本丸北側下の腰曲輪と切岸
腰曲輪は本丸周囲にあるようで、全ての腰曲輪が畑として利用されている。本丸下の切岸は高さ5mほどあり、 垂直に削られている。

本丸
本丸は非常に広い畑になっている。

堀?
城の北部周囲には堀跡のようなのがあったが・・・?往時は、 城の周りは全て沼だったので堀はないと思うんだけど・・・?尤も、城の間近だけ深く掘ってあったとしても不思議ではないが・・・?
 

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