本丸北側の土塁と堀
対里見勢の前線基地としての井田氏の大城郭
所在地
千葉県山武郡横芝光町坂田(ふれあい坂田池公園すぐ北の山)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:畑地、山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、虎口、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/03/01
歴史等
坂田城は14世紀中頃千葉氏によって築城されたと伝えられている。或いは、戦国時代の弘治元年(1555)
井田氏により築城されたともいわれる。
いずれにしても、当初は千葉氏に仕える三谷氏がこの地域の領主であったが、一族で争っていたため、弘治元年(1555)
山室氏の客将であった井田氏に急襲されて三谷氏は滅亡したといわれる。
井田氏は田向城(芝山町)へ居城を構えてから次第にその勢力圏を拡大し、田向城の北東の大台城(芝山町小池)
に居城を移しつつ小領主たちを従え始めた。
そして、弘治元年(1555)に三谷氏を追い、坂田城に拠ったとされる。
しかしながら、当時の井田氏の勢力からみて、現在見られる坂田城址はあまりにも巨大であり、
もっと小規模な台地先端部付近を使用しただけの城であったと思われる。
その後、井田氏は千葉氏ついで後北条氏に仕え、安房の里見氏と対立する状況にあって、対安房勢前線基地として、
坂田城の役割が増していく中で大規模な城郭に普請されていったものと思われる。即ち、
坂田城は井田氏以外の後北条氏方の武士団がいざという時に集結する拠点として築かれたのではないかと考えられる。
そして、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際も、後北条氏に味方したため、後北条氏の滅亡とともに坂田城も廃城となった。
『「現地説明板」、「房総の城郭・千葉城郭研究会編」他参照』
現況・登城記・感想等
坂田城が築かれている山は、まさに城を築かれる為にあるような細長く伸びた舌状台地であり、
その台地を何本もの堀切で断ち切って築かれている。
そして、それら堀切や土塁の規模は大きく、しかも良好に残り、見応え充分である。
登城前には、所詮、地方豪族の城でもあり、こんなに大規模で、しかも良好に遺構が残る城址とは思っていなかった。
中でも、三郭・四郭の広さは尋常ではなく、山の上に、これだけ広い曲輪が存在するなど想像だにしていなかった。
城域は大半が畑地や梅林になっているが、遊歩道が整備され見物もしやすくお薦めの城址だ。
(2009/03/01登城して)
ギャラリー
坂田城址縄張略図(現地説明板から)
四郭の堀切と土塁
①㊧最も外側の堀、②㊨最も内側の堀
四郭への虎口は折のある幾重もの土塁・空堀で区切られている。それぞれ規模も大きく、見応え満点である。
四郭
③㊧四郭西部、④㊨四郭東部
四郭は大半が畑地になっている。尋常な広さではなく、何と300m×180mもある。
山の上にこんなに広い曲輪が存在しているとは想像もしていなかったので度肝をぬかれた。これだけ広い削平地である。当然、
畑地に転用するのはご尤もだ?
⑤三郭への虎口と土橋
三郭への虎口両側の土塁も、その手前の空堀も規模が大きく見応えがある。
⑥三郭虎口左(東)側の土塁と堀
土塁の高さは3mほどあり、幅も広く重厚感がある。
⑦三郭虎口右側の堀
空堀の幅は10m強あり、深さも5m近くありそうだった。
⑧三郭
四郭ほどではないが、三郭も非常に広く、80m×150mもある。ここは大半が梅林になっている。本来、
観賞用ではなく実を採るためのもので白梅だけであるが、それを利用して梅祭りの最中であったが、あいにくの雨まじりの天候で、
日曜日にも関わらず人手が少なかったのはラッキー?だった。
⑨二郭への虎口と土橋
ここからが、最初に築城された頃の城域であろうか?この光景もなかなか絵になる。
⑩二郭への土橋の左(東)側の堀
土橋両側の堀と土塁も大規模なもので、横矢が掛かっている。
⑪二郭への土橋の右(西)側の堀
⑫二郭
二郭はそれほど広くなく、80m×60mほどの不整形な三角形を呈しており、杉林になっている。
⑬二郭から本郭への虎口と土橋
三郭から二郭に入ってすぐ右(西)側、またまた土橋へと出る。この光景も見所の一つであろう。
⑭本郭虎口土橋の左(南)側の空堀
土橋左(南)側の堀は、崖まで続いている。
⑮本郭虎口土橋の右(北)側の空堀
右(北)側の堀は、本郭北側の堀と二郭北側の堀へ繋がり、複雑な形状となっている。
⑯本郭
本郭は80m×60mの長方形で、周囲を土塁がめぐり、今は杉林になっている。
⑰本郭北東部の土塁
本郭周囲の土塁の中でも、北側は特に高く3mほどある。
⑱本郭北西部の土塁
⑲本郭搦手虎口と土塁
本郭の外側から、西側の土塁と搦手虎口を見たものである。ふれあい坂田池公園に車を置いて、
ここへ登ってくることも出来る。
⑳本郭北西部の空堀
この屏風折の土塁と空堀も見応え充分で絵になる光景だ。